目の前で苦しみ続けるみんなを見ていると、心苦しくなってくる。私は握る手に力を込めた。
だからといって毒が中和されるわけでもないし、ここにいることで何かが変わるわけでもない。
けれどそれでも、私はみんなの傍にいたかった。

あの獣人は、そもそもは私と黄泉さんを始末しようとやってきたのだという。
それはクラウドたちにはまったく関係のないことで、みんながこうやって苦しむ結果になる必要はなかったはずだった。
巻き込んで、しまった。それは揺るぎのない事実で、私は罪悪感を覚えずにはいられない。



「暇さえあればここに来ているようだな」



嘆息しかけたところに声をかけられて、私はそれを飲み込んだ。



「……黄泉さん」



振り返ると背後に黄泉さんが立っていた。ティムライトを滅ぼした魔術師が敬愛するドレットの部下、だった人。
だけど黄泉さんは自ら進み出て、薬草の採取のためにツハイン山脈を登ると言った。
それはみんなのためなのかどうなのかはわからない。ただ単に薬草の外見を知っているからかもしれない。
にしても、こんな時にまで気配を消すことはないのに。暗殺者としての癖なのだろうか。
……私がぼうっとしていて、彼女の気配に気付けなかっただけなのかもしれない。
丸椅子に座るよう勧めようとしたら黄泉さんは壁に体を預けてしまった。戸惑う私の心中を察したのか、



「座るよりこちらの方が楽なのでな。奇襲があった時もすぐに動ける」



こんな船の上ではよほどのことがない限りそれはないけれど、暗殺者としての性分が染み付いてしまっているのだろう。
なんとなくわかる気がする。私も、王宮で暮らしていた頃の癖がまったく抜けないからだ。
椅子に腰掛ける時の上品な振る舞いや、食事作法。皮肉にもそこにはもう戻ることはないというのに。
その点では黄泉さんと私は似ている。と思うのだけど、それは勝手な思い込みかも。



「出港してから既に二日、だ。よく飽きずに病人の顔など見ていられるな」

「……大切な人の死に目に会えないのは、つらいですから」



私は父の死に目にも兄の死に目にも会えなかった。今となってはしかたのないことだけれど、やっぱりつらい。
ふたりはどんな思いで命を断ち切られたのだろう。最期にひとめだけでも、会いたかった。



「黄泉さん。私はどうして命を狙われたんですか」

「ティムライト王国の生き残り、だからな。本来ならばメジストの仕事だったはずだが」

「メジスト?」

「……まだ教えていなかったか。ティムライトを滅ぼし、この船に奇襲をかけた魔術師の名だ。
ティムライトの人間をすべて殺すよう命じられたのはメジストだったらしいからな。まさかスークが来るとは」



目を少し細めて彼女は言った。
メジスト。私はその名前をしっかりと心に刻み込む。父と兄と民を殺した、憎い仇。
なんだか胸がじくじくしてきた時、私はふとした疑問にとらわれた。



「……ドレットの部下って、女の人が多いんですね」



黄泉さんに、メジストに、スークというあの獣人。
ただの偶然だとは思うけど、もしかしてドレットって女好きなんだろうか。



「別段多くはない。男の暗殺者は何人もいる。そうだな、ドルがいい例か」



聞き慣れない名前に目を瞬いていると、黄泉さんは何かを思い出しながら話し始めた。



「あいつは見かけとは裏腹に占いを好む」

「占い、ですか」

「ただの占いじゃない。よく当たるし、何よりあれは未来を予言する。予知能力、というものだ」

「じゃあそれをドレットに買われたんですね」

「恐らくな」



力がそれだけとは少々考えにくいが、と黄泉さんはまた目を細めた。
未来を視られるだけでも十分すごいと思うのだけれど、確かにそれだけでは人は殺せない。
占い師にでもなった方が名を上げられるし、お金も稼げる。わざわざ血に染まる道を選ぶことはなかったはずだ。
何か、表の世界では生きていけなくなった事情でもあったのかもしれない。
……自分を付け狙う敵のことについて思いを巡らせたってどうしようもないんだけど。

そこまで考えて、私は黄泉さんからクラウドに視線を戻した。……すごく、苦しそう。
それはみんな同じなんだけど、クラウドはお腹に深い切り傷を負っている。
アルさんが傷口を塞いでくれたものの、やっぱりこの状態でこの怪我はハンデが大きすぎる。
笑い声が聞こえたあの時、すぐにでも扉を開けていれば………。



「おい、ウンディーネ」

「あ…は、はい?」



また考え込んでしまっていたようで、私は少し驚いた。思わず大きな動きで黄泉さんを振り返る。



「今更ではあるが聞かせろ。記憶はどうなった」

「戻りました。……でも」



躊躇していると促された。どういうことか話せ、と。



「記憶が、フラッシュバックしました。物心ついた時から今までの記憶が順々に頭の中を巡っていって。
お父さまの顔もお母さまの顔も、お兄さまの顔だって紙に描けるくらい鮮明に思い出したんです」

「すべて戻ったのだろう?なら何も心配することはないだろう」



射ぬかれそうくらいまっすぐな闇色の瞳から、私はまたクラウドの青白い顔に逃げ込んだ。握る手に自然と力が入る。



「怖いんです」



後ろで黄泉さんが眉を寄せた気がした。



「何かを得るためには何かを失うことになる。昔からよく言われていることですよね。
それが今回のことにも当てはまるんじゃないかって、私、この前から何度も考えちゃってるんです」

「……つまり、記憶を得た代わりにこいつらを失うはめになるのでは、と?」



呆れたらしい黄泉さんの物言いに私は苦笑いで返した。……やっぱり、黄泉さんは丸くなった。
出会った当初はもっと刃物みたいな人だったのに、今では、その刃物も先が丸くなっているような気がする。
本人に言っても結局否定されるんだろうな。自覚がないのか認めたくないのかは全然わからないけど。まあ、いいか。



ふと時計を見上げると針が午後三時半を指していた。
そろそろ厨房に行って、支度を始めないと夕食の時間に間に合わない。



「黄泉さん、私そろそろ厨房に行きますね」



無言で頷く。その時私はちょっと思い付いて、だめもとでお願いしてみた。



「あと、アリヤさんのそばにいてあげてください。できれば手をにぎっ…」

「できるか」



即答されてしまった。



「……冗談です。言ってみただけですよ」



こっそり心の中で大きな大きな溜め息をついて、私は医務室のドアを開けた。
……気持ちはわからないでもないけど、そこまで嫌うこともないのにな。


























































カミノウタ



第18話

−この胸に渦巻くもの−




























































コツコツと響く足音と、同時に遠ざかる気配。
それが完全に消えると黄泉は壁から体を離し、そしてゆっくりと五人が横たわるベッドへと近づいた。
厄介なことになったものだと、ごくごく小さなつぶやきが漏れる。まったく、この船にはお人好ししか乗っていない。
スークがやってきた時、彼らはただ自分に任せて傍観していればよかったのだ。
下手に首を突っ込んで、余計な真似をするからこういうことになる。
大人しく見ていれさえすれば、毒を喰らって苦しむ羽目にはならなかったものを。
モモカにしたってそうだ。何故あそこで自分にスークの処理を頼まなかった?
スークには勝てないことなど十二分にわかっていたはずだ。みすみすやられることはなかっただろう。
そもそも自分がついてきたのは、他の誰でもないモモカに頼まれたからだというのに。
軽く左右に首を振って、黄泉はまた溜め息をついた。更に言えば―――自分がこんなことを考える必要はないはずである。
彼らが勝手に飛び込んで、勝手に傷付いたのだ。自業自得としか言いようがない。
だのに、何故。自分は関係ないはずの彼ら――モモカは別として――の心配をしているというのか。
彼らが生きようが死のうが、それによって船長たちが喜ぼうが悲しもうがどうだっていいことだ。自分には関係のないこと。
これから生きていくにあたって差し障りはない。……関係ない、どうだっていいはずなのに。
私は今、どんな顔をしているのだろう。そんな考えがふとよぎり、黄泉は思わず自嘲に笑んだ。
きっと先程のウンディーネのように情けない、思い詰めた表情をしていたに違いなかった。

顔を上げると、炎のように赤い髪が目に入った。アリヤのものだ。
いつもはひとつにくくられているが、今は少しは楽になるようにとほどかれている。
彼自身は気に入らないが、この炎の髪はそうでもなかった。
光に照らされると鮮やかに煌めき、風に吹かれると本物の炎のように揺らめく。
綺麗な髪だと心から思う。言ってしまえば、それだけが唯一アリヤが黄泉に好かれている点だった。
これを言えば彼がどんな反応をするかは想像に難くない。
以前皮肉で言った"尊敬"以上に舞い上がり、手を握ってくるどころか抱きついてくる可能性も十分に有り得るだろう。
その光景を思い浮かべてしまい、黄泉は本日何度目かの溜め息を吐き出した。
常々思うのだが何故この男は自分はこだわるのだろうか。
思い返してみると、警戒していた彼の態度が豹変したのは頭に被っていたフードが外れた時からだ。

考えてみれば簡単なことである。アリヤは黄泉の容姿に一目惚れしたのだ。
黄泉は、自分の容姿が人より優れていることを知っていた。職業上、それのおかげで有利に仕事が運ぶことが多かったし
命じられて、魅惑的な美女として標的に近づき、油断したところを仕留めることだって何度もあった。
必要があれば寝たことだってある。誘いに乗るのは、大抵、肉体も精神も醜く脂ぎった男ばかりだったから、
たいがい我慢できなくなって途中で殺してしまったが、命令はとにかく"殺せ"なのだから問題は何ひとつなかった。
アリヤ―――この男もどうせその類なのだろう。結局は身体目当て。所詮男などそんなものだ。
だから黄泉は男が嫌いだった。無駄に整っている外見だけを見て、誰も"黄泉自身"は見てくれない。
彼女の意志など気にもせずつきまとい、値踏みし、関係を結ぼうとする。
醜いクズどもめ、貴様らなどこの世に巣食う魔物どもに喰われてしまえばいい。
心でそう吐き捨ててから、ふと気づいた。


虚しい。


今更だ。黄泉は自嘲した。それを憂える感情は、とっくの昔に捨ててきた。
どす黒い血にまみれたこの手で自分は何を求めている?差し伸べられている手など、どこにもないというのに。

最近の自分は、どこかしら妙なことに、黄泉は少なからず戸惑いを覚えていた。
いつもの彼女ならば、過去のことなど省みないはずなのに、今日はやけに昔を思い出す。
それに、無人島でネルーに言った言葉はなんだ?何故自分があのようにして諭さなければならなかった。
いつまでもこの船に甘んじるつもりも、なかった。すぐにでも出て行って、殺し稼業を再開するつもりだった。
あの港町ででも元の道へと戻ることもできたのだ。なのに自分はしなかった。友人の頼みだからと、そう自分を偽って。
自分はいったいどうしてしまったというのだ?関係ない。そう、関係ないのに。
どうしてこんなにも、胸が騒ぐ―――?

静寂に耳が痛くなって、ふと、"丸くなった"というティルの言葉が思い当たった。
馬鹿馬鹿しいにも程がある。増えていくのは要らない感情ばかりだ。
凍りついていたはずの心なのに。それが少々光の中で暮らしただけで、これだけ溶かされるとは思いもしなかった。
消さなければ。早く。早く。こんな感情、足手まといにしかならないに決まっている。

再び、視界に炎が飛び込んできた。
これを失ってしまうのは、とてつもなく惜しい気がしてきて、黄泉はまた自嘲じみた笑みを浮かべた。
馬鹿馬鹿しいにも程がある。こんな感情は自分には必要ない。心の底からそう思う。


……けれど。
もう少しだけ先延ばしにすることを、許してはくれないか。
せめて彼らの身から、危険が遠ざかるまでは。



「かならず、救おう。約束だ」



赤く燃ゆる髪に口づけて、彼女は踵を返し歩き始めたが、すぐに足を止めた。
扉の向こうに気配を感じたからだ。がちゃ、と無遠慮にそれは開く。



「あれ、先客だ」



驚いた表情は一瞬のことで、それはすぐに笑顔に切り替わった。
やってきたのは落ち着いた雰囲気を持つ垂れ目の青年、アルフレッドだった。



「こりゃ意外。まさかあなたが見舞いに来てるとは」

「死に損ないがいつくたばるとも知れんのでな」



おやおやとアルフレッドはのんきに笑って、それから「素直じゃないなあ」と言った。



「心配なんだろう。まったく、あなたみたいな人はどこにでもいる」

「……余計な世話だ」

「でしょうとも。お節介が趣味でね」



黄泉の横をすり抜けて、アルフレッドは五人の顔をひとりひとり見ていった。
彼は別段医療に詳しいというわけではない。ただいさせてもらってるだけじゃ悪いからと
自ら進んでティルの手伝いを申し出たのだった。回復魔法が使えるから多少は役に立つだろうと。
そのうち、アルフレッドは神妙な顔を上げた。どうやら診断ごっこが終わったらしい。



「変化なし、か。……いや、もしかしたら微妙なところで変わってるかも。わからないな……」

「とりあえずはまだ大丈夫だろう。今日を持ち越すことができれば明日もなんとかなる」

「……言い切るね」

「何度もこの手の顔は見てきたんでな。だいたいはわかる」

「なァるほど。そういえばあなたはアサシンだったか」



たった今それを思い出したかのようにアルフレッドは言う。
黄泉がアサシンだということに驚きもせず、彼はあっさりと受け入れた。曰く、「職業に貴賤はないから」だそうだ。
さて、とアルフレッドは意気込むと、精神集中とともに詠唱を始めた。

焼け石に水かもしれないと思いつつもアルフレッドは朝昼晩決まった時間に五人にある魔法をかけている。
やがて、鮮やかな青い光がきらきらと五人に降りかかった。しかし別段変化はない。



「効くはずがないんだけどね……簡単な解毒魔法だから」

「お前が始めたのだろう?」



そう言ってやると、アルフレッドは「やらないよりはマシだから」と苦笑した。
黄泉は少々彼が苦手だった。ティルとはどこか違う穏やかな雰囲気を持ち、時に鋭い発言をする。
そして見透かされているようでなんとなく嫌なのだ。あまり彼のような人種には会ったことがないから尚更である。
ふと周囲を見渡して、黄泉はいつもそこにあるはずの存在がないことに気付いた。



「ティルはどうした?」

「ああ、あの人なら船長さんと何か話してるみたいだよ。たぶん針路のことだと思う」



納得して頷いてから、黄泉はぼんやりとこれからのことを考えはじめた。

























































「ティル。どう思う」



背中を向かれたまま聞かれて、ティルは小首を傾げた。質問の意図がわからない。
彼らの病状のことだろうか。しかし先程報告したばかりだし、船長はまだボケるような年齢ではなかったはず。
なんて答えようかと思案しているうちに、船長が先に口を開いた。



「なんで敵にあいつらの場所が知られたのかがわからん。
不老長寿の女がいるくらいだ、ただの暗殺組織じゃねえとは思ってたんだが……」

「……確かにそれはおかしいですね」



顎に手を当てて、考えてみる。



「いくらただの暗殺組織ではないといっても、船で移動している私たちの後が追えるとは思えません。
以前襲われた時に船自体に何か魔法をかけられたとしか……」

「いや、それはねえ」



船長の断固とした口調にティルは顔を上げた。



「一度この船は故障してるし、場所がわかってるんだったら直接来た方が早い。
それにそんな魔法が長続きするたぁ思えねえんだ」

「……となると……」

「ああ」



その先にある答えなど信じられないし、信じたくもない。だがいずれは向き合わなければならない問題……。



「この船には、スパイが乗ってるのかもしれねえ」



ひっそりとした、彼らしかぬ口調だった。感情が読み取れない瞳に空と海の色が映る。
清々しい二つの青から逃げて、船長は窓際に置かれている自身の拳を見た。関節が白くなるほどにそれは強く握られる。



「―――フィーメルは……こんなオレを笑ってるかもしれねえな。
娘を守れないだけでなく、てめえの仲間を疑うはめに陥ってる無様な姿をよ……」

「あの人は………あの人なら」

「わかってるさ」



首が左右に振られる。彼女ならばこんな時、何も言わずにただそこに。それは彼自身、よくよくわかっていることだった。
彼女の形見である娘を立派に育てることが自分に与えられた使命。
今のところ問題なく育ってくれているが、少々海の男らしく粗雑で短気な娘になってしまった。
しかたないと言えばしかたないし、短所など気にならないくらいの長所があればそれはまったく問題のないこと。
ただ親としては、そろそろ恋のひとつくらいしてほしいものなのだが……。軽く息をついて、首を振った。
それは今考えることではない。船長は顔を上げて窓から離れ、ソファに腰掛けた。



「スパイねぇ……この前の魔術師なんか、ド、ドレ、ドレッシン……」

「ドレットですよ」

「そうそれだ。そいつを盲信してますって感じだったよな。
もしドレットの部下がみんなあんな感じなら、見つけるのは案外簡単なんじゃねえか?」

「どうやって見つけるかによりますね。しかし、今のところスパイである可能性が高いのは―――」

「……あいつはドレットに命を狙われてんだろ?
この船に来たのだって捨てられちまって行くとこがねえからだ。そんな奴がスパイなわけねえじゃねえか」



一蹴されたにも関わらず、ティルはかぶりを振って食い下がった。
船長はいつになく複雑な表情を浮かべていて、仲間を疑いたくないという心がありありと見てとれる。
そんなの、ティルだって同じなのだ。けれど既に関係のない船員がひどく巻き込まれている。
最悪、この船は沈む。今は心を鬼にしなければならない時だというのにこの男は。



「それはすべて演技で、作戦のうちとも考えられます。魔術師も、獣人だって彼女に手を出さなかった。
ただの偶然と言ってしまえばそれまでですが、現状で一番疑わしいのは黄泉さんなんです。
彼らのために薬草を採りにいくとは言っていますが、それも本心かどうか。
もしかしたら、どさくさに紛れて毒草を採ってくる可能性だって」

「わかった」



ばしんと飛んできた声に、ティルの声は遮られた。



「オレと黄泉でツハイン山脈を登り、薬草を採ってくる」

「なんですって?」

「監視がいりゃ毒草を採ったりはしねえだろう。それにオレは、あいつがよくわからん。
いつも淡々としてて何を考えてるかさっぱりわかりゃしねえ。だから、……見極めてえんだよ、あいつの心を」



その真摯な目に真っ直ぐ射抜かれる居心地の悪さを味わったあと、しかたないなとティルは腰に手を当てた。



「駄目だ、って言っても……」

「オレはやるぜ」

「……でしょうね」



止めても無駄なことは重々承知していた。今回に限ったことではないが、これではどちらが年上かわかりゃしない。
しかし今までほとんど海の上で暮らしてきた人間がいきなり山登りなどできるのだろうか。
船長は年齢にしては体力が随分とある方ではあるが、それも海の上での話である。
かといってそれを指摘したところで彼が諦めるわけがない。ここは黄泉に任せるしかない、ということか。
まあ魔物が出るというのなら、ツハイン山脈にも登山道くらいあるだろう。ならば海一本の船長だって苦戦はしない。



「船長、無理はしないでくださいよ」

「わかってるって。海で鍛えられたオレ様の筋肉をなめんじゃねえぞ!」



ほれ見ろと言わんばかりに船長はポージングをしてみせる。
それに少々の不快感と吐き気を催しながらティルは頷いたが、やはり心配である。彼はあくまでもこの船の長なのだ。
できれば無謀なことはせずにここにいてほしいのだが、それも無理な相談なのだろう。
なんせ彼は血肉沸き躍る生粋の海の男。その場でじっとしていろというものなら、それこそ拷問である。
しかし、考えれば考えるほど問題点が出てきそうなのは気のせいか。



「おうティル、何考え込んでやがんだ?なんでも深刻に考えちまうのはてめえの悪い癖だぞ!」

「船長と違って私は慎重なんですよ。
あなたのいない間みんなを指示しなければなりませんし、仕事探しもある。それにもしものことがあった場合……」

「おうおう、わかったわかった。しっかり頼んだぜ副船長ティルさんよ。なんだかんだ言って、てめえは頼りになるからな!」

「光栄ですハザード船長。……それでは、そろそろ医務室へ戻ります」

「おう。針路は大丈夫だな?」

「もちろんです」



答えてティルはドアの前で一礼し、踵を返した。
そうして少し歩いたあと医務室のドアノブを握ろうとしたところ、その手は空を切った。
一瞬きょとんと手を見つめたが、すぐに上空を仰いだ。するとそこにいたのは頭のてっぺんから爪先まで真っ黒な黄泉の姿。



「まさかあなたがここにいるとは。やはりみなさんが心配で?」

「様子を見に来ただけだ。死なれては夢見が悪い」

「そういうのを普通、世間一般的には心配というような気がしますが?」



いつものように鋭く睨まれることを想定し、ティルは身構えた。あの眼光は何度見ても慣れない。
だが予想に反して黄泉は何も言わず、ティルの隣をすり抜け、引き留める間もなく曲がり角の向こうに消えていった。
いつもならばあっさりと否定するはずである。煩わしさを通り越して呆れ返ったのか、それとも。



(……何を考えているのやら)



ふと、先程の船長とのやりとりを思い出して、ティルは溜め息を吐き出した。問題は山積みだ。
医務室に足を踏み入れると、真剣な顔のアルフレッドの姿があった。
ドアを閉める音に振り向き、ティルの姿を認めたことでそれは幾分か和らいだが。



「やあティルさん。お話しは終わったのかい?」

「ええ、おかげさまで。しかし少々困ったことになりまして」



これを言ったら彼は驚くだろうか――――
先程の自分のようにきょとんとしているアルフレッドにティルは言ってやった。



「船長自ら山脈に赴かれるそうです。黄泉さんばかりには任せられないと」

「へえ、そうか」

「……驚きませんね」



ティルは少しだけ不服そうに腕を組んだ。はは、とアルフレッドは笑う。



「見た感じかなり体力有り余ってそうだったよ。
だから大丈夫じゃないかな。確かに船乗りには山登りはきついかもしれないけど」

「……うーん」

「そんなに心配しなくたっても大丈夫だってば」



アルフレッドが少し困った顔をしたので、ティルは悩むのをやめた。
もう決まってしまったことだ。人の命がかかっている以上わがままは言っていられない。
彼らの様子を診てみたが何ら変わりはない。むしろ先程よりも顔色が悪くなっているような気がしなくもないくらいだ。
手近にあったタオルで溢れ流れる汗を拭いてやる。全員の汗を拭いただけで薄いタオルはびっしょりと濡れてしまった。



「そういえば、黄泉さんが先程までここにいらっしゃったようですが……」

「うん。先に来てたみたいだよ。ウンディーネは毎日だね」

「よっぽど心配なんでしょう」



気持ちはわかりますが、とティルは水が張ってある洗面器の中にタオルに戻した。

アルフレッドは苦しそうに息を吐くクラウドを見た。
よくよく思い出してみれば、彼女の感情が高ぶったのは倒れていたクラウドをあの獣人が足蹴にした瞬間だった。
やれやれと息をつき、キセルをくわえようと懐を探ったが、やめた。ティルの鋭い視線がぐさりと突き刺さったからだ。
懐から手を離し、弁解の笑顔を向けると彼はそれでよいといわんばかりに微笑んだ。
医務室、ならびに嫌煙家であるティルの周辺は全面的に禁煙である。

























































ウンディーネは自室に戻ると、真っ先にベッドに倒れ込んだ。
うつ伏せの体勢は慣れていないので少し苦しいが、布団を直に感じられるから気持ちいい。
今日の仕事は大変だった。いつも取り仕切っているモモカがいないせいか、みんな、いつもはしないような失敗ばかりだ。
それは自分も例外ではなく、まるで調子の外れた楽器のようだった。
やはり、モモカがいないと調子が狂う。死ぬかもしれないという現実に直面していることもあるだろう。

ふと、彼らを傷つけられた怒りに燃えていたことを思い出した。あの時の自分は、まるで自分ではないようだった。
五感すべてが研ぎ澄まされ、景色はスローモーションのようにゆっくりと動いていた。
今になって考えてみれば取り返しのつかないことをしたのかもしれなかった。
人を殺した。重い実感が波のように迫ってきて、彼女の小さな体はかたかたと震え出した。
殺した。奪ってしまった。ひとひとりの命をいとも容易く。この手で無惨にも奪い取ったのだ。
生ける者の命は想像よりも重い。いくら彼らを傷つけた憎い相手だとしてもそれは許されることではない。
この罪はどうすれば償えるのだろう。手にこびりつく血はどうすれば落ちるのだろう。
俗に殺し屋と呼ばれる者たちは、心に巣食う恐怖をどうやって拭ったのだろう。
わからない。ただただ感じるのは、また人を殺してしまうかもしれないという恐怖だけだ。
あの時は感情に任せて行動してしまったけれど、冷静に考えれば、…………。

ウンディーネは枕に顔をうずめた。
簡単に割り切れるような問題ではない。こればかりは置いておいていいことではない。
真っ向から立ち向かわなければならない事態がまたひとつ増えて、彼女は心に落胆の色を滲ませた。
いったいどうすればいいのだろう。何から片付けていけばいいのだろう。やはり、わからない。
いっそすべてを投げ出してこのまま溶けてしまえたら。――――できるはずもない幻想に、溜め息を吐く。
思えば、この船で働きはじめてから一ヶ月以上経っていた。時間の流れは遅いようで、とても速い。
故郷が滅び、記憶を失い、命を狙われ、挙げ句今度は仲間が死にかけている。
何故こんなひどい目にと思う間もなかった。めまぐるしく動く物事についていくのが精一杯だったから。



(疲れたな……)



体が重い。
ごろりと寝返りを打って仰向けになったら、溜め息がまた口をついてしまった。苦笑を浮かべる。
おそらく明日には黄泉をラエルに送る。本当に間に合うのかと不安になったが大丈夫だ。
あの黄泉ならばかならずやり遂げてくれる。クラウドたちを救ってくれる。
……そんな絶対的確信とは裏腹に、ウンディーネは黄泉に対してもうひとつ別のものを抱かずにはいられなかった。



(スークには、ドレットの組織には私の場所が知られてた。
追跡の類の魔法を使われてたのだとしても、誰かがその魔力に気付くはずだし……)



考えられるのはスパイの可能性。
そんなものがいるわけがない、と一概に笑い飛ばすことが出来ないのが悔しかった。



(黄泉さんはもともとはあっちの側の人。だけどその力が危険になってきたから命を狙われてる……)



少なくともウンディーネはそう思っていた。
けれど、本当にそうなのだろうか。

ドレットと連絡を取って、スパイとして働き始めた可能性はなくはない。命を狙わない約束と引き換えに、だ。
黄泉はもともと感情が豊かではない方のようだし、たとえ強い感情を抱いたとしても、明るみに出ることはあまりない。
今ならわからないものの、会った時ばかりの黄泉ならば、容易く自分たちを売ったかもしれない。
命の保証と引き換えに間抜けな船員たちを見張り、報告すれば良いだけだ。
これだけ都合の良い取引はない。もしこの推測が正しいならば、メジストやスークが黄泉を狙わなかったのも納得がいく。



(どうしよう、辻褄が合ってる。これじゃ本当に……)



薬草の採取を進み出たのも丸くなったからではないようだ。
死なれたら困る。何故かは知らないがそんな訳があるのかもしれないし、想定外のことに責任を感じたのかもしれない。
どちらにせよウンディーネやティルが抱いていた期待は大きく外れたのだ。
もちろん、これは単なる推測でしかない。けれど考えれば考えるほど、この推測は綻びがないように思えた。
だんだん瞼が重くなってきた。まとわりつく眠気を必死に振り払いながら考える。
もしも本当に黄泉がスパイだとしたら、自分はどうすべきなのか。怒ればいいのか、嘆けばいいのか。
少し考えてみたあと彼女は瞳を閉じた。それはそれ、そうなった時に考えればいいことだ。
胸にしこりが残ったが、ウンディーネは気にせずに眠気に逆らうのをやめた。

そして、運命の日がやってくる。

























































だんだんと青みを帯びてきている空を、黄泉は甲板で仰ぎ見ていた。
航海にも登山にも申し分のない天候と言えよう。空に雲はなく、風もそれほど強くはない。
と、視界の隅に荷物を背負った船長が駆け込んできた。彼もまた空を仰ぎ、その見事さに歓声を上げた。
背中の荷物は結構大きい。彼なりに考えた結果が入っているのだろうが無駄な物ばかりが入っているに違いない。
それを指摘すると船長は左右に首を振り、後ろからはティルのものらしき溜め息が聞こえてきた。
……面倒極まりないが、出発する前に船長を説得しなければならないようだ。



「船長、やっぱりやめておいた方がいいのでは?」

「今頃何ほざいてやがんだ。オレ様が行かないで誰が行く!」

「そうは言っても不安要素が多すぎるんですよ。だいたいそんな大荷物、登山の邪魔になるだけでしょう」

「いーやならねえ!オレ様が考えに考え抜いて荷造りしたんだぞ!」

「船長……」

「いいか、オレ様はもしもの場合を想定してだな……」



ぐったりとティルはうなだれた。頑固さは理解していたつもりだが、これではただのわがままではないか。
中身は寝袋だの食糧だの鍋だというが、登山も下山も今日中にフルスピードで済ませてしまう予定だ。
こんな朝早く行くのもそのためだというのに。少しはティルを応援してやるかと黄泉はひとつだけ溜め息を吐いた。



「船長さん、あんまり無理を言うなら置いていくよ」



口を開きかけたその刹那、アルが助け船を出した。その隣には苦笑しているウンディーネが居る。
どことなく思い詰めたような表情を浮かべているのは気のせいではないだろう。
彼に続いて船長をなだめる言葉を口にはしたが、ちらちらと後ろを伺っていたりして落ち着かない様子だ。
一秒でも長く彼らのそばにいたいのだということは容易に見て取れた。

(それを素早く察したティルが見送りは自分に任せて医務室に行けと提案したのだが
どうやらウンディーネも船長に負けず劣らず頑固らしく、ティルはけっきょく説得を諦めざるを得なかった)



「それを言われちゃしかたねえわな……。おいティル、手伝ってくれ」



船長はしゅるしゅると荷を解き始め、応援要請に素直に応じたティルもそれに続く。
しかし、リュックの中身を確かめたティルは思わず呆れてしまった。



「船長、食糧はこんなにいらないでしょう……この分だと五日分はありますよ。
登山と下山すべて含めて一日で帰ってくるってこと、知らなかったとは言わせませんからね」

「ば、ばばばばばばばっか、おめえ!
たとえば山脈で遭難とかしたら食糧に困るだろ?湯を沸かすのに鍋は必要だろ?
言っただろ、オレ様はすべての場合を想定して荷造りしたんだ。抜かりはまったくないと―――」

「多めに見積もって二日分の食糧を入れておきますね。あとの三日分は倉庫に戻しておきますから。
鍋も二つも必要ありません。小さい方を持っていきましょう」



船長の言い分を無視しつつティルは荷物の縮小作業を淡々と進めていった。
負けるわけにはいかないと船長は必死に立ち向かうが、無駄だと悟ったのか、そのうちに黙り込んで
次々に除去されていく荷物たちを一心に見つめているだけとなった。これでひとつの不安要素が消えたといえる。
やがてティルの作業が終わった。当初膨らんでいたリュックは今ではすっかりしぼんでいる。
その横には不必要な量の食糧や鍋やタオルや着替えやらが山積みにされていたが。



「とりあえず動きやすいことを前提に最低限の荷物しか積んでいません。
船長、黄泉さんにご迷惑をかけないようお願いしますね。黄泉さん、船長をお願いします。
なにしろ海の上ばかりで登山は初めてなものですから」



黄泉は無言で頷いた。てっきり船長から鋭く文句が飛んでくるものかと身構えてみたが
すべての抵抗は無駄だと理解したのか、船長は無言で手元の槍を弄んでいた。



「それじゃ行くかい?」

「そうだな。実に時間がもったいない」



アルフレッドが一歩前に進み出た。すっかり待たせてしまったかと思ったが
彼の様子に待ちくたびれたとうんざりしているような表情はない。
対照的に黄泉はすっかり「いい加減にしてくれ」と言いたげにしていて、ティルは思わず苦笑した。
それらのやりとりを微笑ましそうに見守ったあと、アルフレッドは黄泉と船長の二人の間に割って入り
はぐれないようにそれぞれ自分の肩をしっかりと掴んでいるようにと指示を出した。



「山の天気は変わりやすいですから気を付けてくださいね」

「おうおう、わかってらぁ」



二人がしっかりと肩を掴んだことを確認すると、アルフレッドは印を結び、文言を唱えた。
幾つも集まったまばゆい光が三人の身体を包み込む。何かが弾けるような音がした刹那、既に三人の姿は消えていた。
光の眩しさから逃げるために額にかざしていた手を下ろして、ティルはぱちぱちと瞬きをした。
あとは上手く事が運ばれるよう祈るのみだ。今日中に戻ってくることができればいいが。
空を仰いでみると、少し白んできていてはいるものの、太陽が昇るのはまだ先のようだった。
ふと、ウンディーネの姿が目に入った。潮風に吹かれる横顔は綺麗としかいいようがない。
しかし今、彼女はひどく揺れているだろうな、とティルは考えた。
大切な仲間を失うかもしれないという局面を迎えていることもあるし、何より人を殺めてしまったこと。
このことが何より彼女を根底から揺るがしていることに間違いはないはずだ。
それについて彼女は……ウンディーネはどう考えているのだろうか。
――――残念ながら、不躾に聞いてしまう無神経さと勇気はティルは持ち合わせていない。



「ウンディーネさん」



呼びかけると、「はい」と微笑んでゆっくりと振り返った。心からの笑顔ではないことは知っていた。



「後のことは船長たちに任せましょう。
心配かもしれませんが大丈夫ですよ。戦闘のスペシャリストである黄泉さんがついてますし、
船長はあまり頼りにはならないとお思いかもしれませんが、腕っぷしは良い方です。
アルフレッドさんもきっと確実にラエルに送り届けてくれていることでしょう」

「……はい、そうですね」



俯き加減に頷いて、彼女はもう一度だけ海を振り返った。
その刹那に嫌な考えが頭をよぎって、胸騒ぎがした。そんなわけがないとかぶりを振る。
もしも本当に黄泉がドレットのスパイだとしたら、船長を事故に見せかけて殺すことが有り得るかもしれない。
何せ山に登ってしまえば二人きりだ。崖から突き落とすことも、魔物に殺させることだって――――



「ウンディーネさん、そろそろ戻りましょう」

「あ、はぁい」



くだらない考えを振り払うかのように勢いよく踵を返すと、ウンディーネはティルの後を追うように船の中へと戻った。
たとえどんなに怪しくても、せめて自分だけは信じなければ、と強く心に決める。
誰かひとりでも黄泉を信じる者がいなくなれば、彼女とて誰も信じることができないのだ。
























































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あとがき

やけにティルが出張っていた18話でした。
今回の話しは少しばかり難産。なんとか書き終えることができました。
それにしても主役が誰だかわからない小説ですね。ウンディーネが出張ったり黄泉が出張ったり。
さて、一日の間に薬草を採って帰ってこられるのでしょうか。

ではまた次回に。