港に降り立つと、船長は冷たい潮風にぶるりと体を震わせた。今は早朝、ましてやここは北の大陸だ。
刺すような冷気が防寒服の隙間を抜けて、あっという間に体温を奪ってゆく。
そのうちに歯が鳴り出すのではないだろうか。試しに息を吐いてみると、思った通り。真っ白な息が視界を埋めた。
太陽が昇ればまた別だろうが、これでは山の上はどうなっていることやら。



「無事に着いたようだな」

「みたいだね。それにしても……」



マフラーを首に巻いたアルが、きょろきょろと辺りを見回した。



「やっぱり、ここの人たちの格好は変わってるな」

「外との交流はつい最近始まったばっかりだからな。言葉もそのうち通じるようになるだろうよ」



ラエルはアルたちがいた港町より正反対の位置にある町だ。
しかし険しい山脈に背中をぐるりと囲まれ、前方に広がっているのはただただ海ばかり。
おまけに見つけにくい場所にあるゆえに、外界との交流はほとんど途絶えていた。
そして外界との交流がないということは、すなわち他文化を吸収する機会がないということ。
さきほどアルが口にした通り、ラエルの住人はみな(彼らからすればだが)風変わりな格好をしていた。
もこもことした生地で作られているローブと帽子。髪は帽子の中に収まり、更に顔にはなんらかの模様が描かれている。
おそらくは彼らが信仰している神をあらわす模様か何かなのだろう。
もしくは家紋か。顔に描かれている模様は、ひとりひとりそれぞれ違うものだった。

そして耳に飛び込んでくる聞き慣れない言葉。
たまに断片的に何か聞き取れはするが、それも船長たちにとっては意味のない文字列にしかすぎない。
はじめは耳を済ましてみてはいたが理解ができないのならば意味がない。
船長はそのうち周りの音を遮断するように首を振った。いくら賑やかなことを好む彼もこの状況は少々つらいようだ。
それに今は一刻も早くツハイン山脈に向かわなければ。彼方に見える山を目指して、彼らは早足で歩き出した。
町を抜けて、山の麓に到着したのが十数分後。船長は目の前に高くそびえるツハイン山脈を仰いだ。
山頂が雲に隠れてしまっている―――結構高い山なのだろうか。



「アル、お前はどうする。ここで待つか?」

「そっちの方がありがたいかな。あんまり体力ないし」



まあ魔術師だしなあ、と船長は笑ったが、船に例外がいることを思い出した。
剣士兼魔術師など器用なことをするものだ。もっとも、ウンディーネと違ってそうレベルの高い魔法は使えないようだが。
魔法の使えない船長から見れば少々羨ましい。一瞬のうちに移動できるなんて憧れの極みである。
と、ある考えが閃いて、船長はアルを振り返った。もしかしたらすぐに船に戻れるかもしれない。



「なぁ、おめえの移動魔術使えばよ、あっという間に山頂に行けんじゃねえか?」

「あー……残念だけど、それはできないね。そうすると帰りの魔法力が足りなくなるんだ」



彼によると、移動魔術は一日に三回が限度だそうだ。四回目は魔法力が足りないから発動できないし、
無理に発動させようとすれば肉体にも精神にも大きな負担がかかり、正確さが著しく失われる。
平均的な魔術師ならば回数はもう少し多いはずなのだが、アルは父にさんざん鍛え上げられたのだ。
もともと才能がなかったのだから通常より魔法力が少ないのも頷ける話である。



「あと二回残ってるから、山頂に行って船に戻ることはできる。でもさ、やっぱり失敗が怖いんだ。
もし失敗したら船に戻れなくなって、間に合わなくなる可能性が高くなる。
そのリスクを背負うよりは、船に確実に戻れるチャンスは多い方がいいだろう?」



もっともだ、と頷いて、船長はその策を諦めた。
確かに船に戻るのが遅れてしまうおそれがあるのではやめておいた方がいい。
それじゃ行くかと足を踏み出したところで、入り口に関所らしき門があることに気づいた。
当然のように門番もいて、簡単には通してくれなさそうだ。



「エラモテ!」



ほら、やっぱり。
聞き慣れない言語に船長は身を固めたが、その言葉の響きから牽制されたらしいことくらいはかろうじて理解できた。
しかしそれだけがわかってもどうしようもない。門番を早く説得して山脈を登らなければならないのだ。
こうなれば身振り手振りしかないと意気込んだその時に、黄泉が進み出た。



「黄泉さん?」

「この言語ならわかる」

「おぉ!ボディランゲージしようかと思ったぜ!」

「……いらぬ恥をかくところだったな」



奴を思い出させないでくれるなと溜め息を吐いて、黄泉は目の前の門番を見た。門番もまた黄泉を見、言った。



「アドイィナン」

「イアティロボン、オウカイムナス。アキアネルケティソオテ」

「アケタエムオスカイ?」



問いらしき門番の言葉に、黄泉はしっかりと頷いた。



「イアテクサトワマカン」



門番はじっと黄泉の目を見つめた。値踏みしているのだろうか。
そうして逡巡するような素振りを見せたあと、彼はぽつりとつぶやいた。



「……ウオラコイ」



門番が何事かを叫ぶと(「ノミアキ」?)、軋んだ音をたてて門が開いた。
船長が感嘆の声を吐き出し、黄泉の背中をばしりと叩く。彼女は少しだけふらついた。



「お、すまん」

「別にいい。……ウオタギラ」



門番と二言三言交わし、握手すると黄泉は行くぞと船長を促した。



「おい、あいつ何だって?」

「山脈には時々熊が出るから気を付けろ、だそうだ」

「んなもん魔物と変わりゃしねえだろ、俺様がついてりゃ大丈夫だ!大船に乗ったつもりでどーんと構えとけ!」



厚い胸板をどんと叩くと船長はアルフレッドを振り返った。
寒いところに置き去りにするのもなんだか悪いと思ったが、彼はもともと北大陸の生まれだ。心配することはないだろう。
むしろ寒さに弱いのは比較的暖かい中央で生まれ育った船長の方である。それにここより山の方が寒いに違いない。



「そんじゃあ行ってくるぜ」

「うん、くれぐれも気をつけて」



門の内側に足を踏み入れてしまうと再び軋んだ音をたてて扉が閉まった。
船長と黄泉の前に鎮座するは白に染まりし山脈のみ。
同じ色の大地を踏み、同じ色の息を吐いて船長は一言つぶやいた。



「……待っててくれよ、みんな」












































カミノウタ



第19話

−白に染まりし山脈−





























































ツハイン山脈はそれほど険しい山ではない。
今まで何千回と登り下りされているおかげで道ができているために登山初心者でも日帰りで山頂まで登り、下山できる。
だがそれは山だけに焦点を合わせた時の話しだ。豊かな自然に恵まれているせいか、魔物はひどく多い。
それゆえに密猟の有無を交代で見回る門番も、魔物を払えるだけの力を持った者だけが務められるという。



「密猟?」

「ここの薬草は数は少ないものの、高値で取引されるからな。それに動物の毛皮も上質なものが多い。
まあ、今はその動物も着々と冬眠の準備をしているから心配されるのは薬草だけだが」

「へえぇ、よく通してくれたもんだ。おめえ、いったいどんなこと話したんだ?」



船長は黄泉の顔をのぞきこんだが、話してくれる様子はいっこうに見せない。
まあこうして入れたんだしいいか、と船長はひとり納得した。
そうして無言でひたすら登っていくうちに太陽が空に姿を現した。陽の光が燦々と降り注ぎ、体温が少しずつ上昇する。
ありがたいなと船長は笑みを漏らしたが、黄泉はなぜか渋い表情を浮かべていた。



「どしたよ?いかにもマズイって顔しちまって」

「得物をいつでも使えるようにしておけ。魔物どもがそろそろ目覚める時間だ」



そう告げると自らも鉄爪をはめた。かちり、と小気味のいい音が耳に届く。
言われた船長も槍の刃の部分に巻き付けていた布をほどいた。この地域での魔物の行動時間は太陽が昇り沈むまで。
すなわち夜のうちに体力を溜め込んでおいた元気いっぱいの魔物たちが今から活動を始めるという。



「この山脈に人間が入るとすれば、見回りの者と密猟者くらいだ。私たちのように許しを得て入る者はごくわずか。
見回りと密猟者は魔物の活動時間外である早朝か深夜にしか山には入らない。
こんな時間に山の中をうろつく者などいないに等しい。……これがどういうことかわかるか?」

「えっと、つまり―――」



つまり、魔物たちがたまにしか嗅ぎ取れない人間の臭いを見逃すわけがなく、
熊も出没するようなこんな豊潤な山には魔物も多いわけで――――

血の気が引いた。



「ぅおいっ!やべえじゃねえか!!」

「来るぞ」



コートの下から鉄爪が明らかになった。それと同時に前方から雪を踏みながら現れる大量の魔物たち。
じりり、と後ずさりしたところで、また別の気配を感じて船長は後ろを振り返った。



「おいおいおい……冗談じゃねえぞ。囲まれちまったじゃねえか」



前方と同じく、魔物たちは久しぶりのご馳走に涎を垂らしている。逃げ場はない。



「おめえ、魔物の活動時間わかってたんなら教えてくれてもよかったんじゃねえか?」

「雪道は体が冷える。魔物退治はいい運動になるぞ」

「怒っていいか?」

「冗談だ」



言われて船長は眉を寄せた。普段から彼女は冗談など言っただろうか。



「今はこいつらの殲滅が先だ」

「……ま、確かにそうだわな」



言って、彼は背中の槍をすらりと抜いた。同時に目の前の魔物たちの殺気が強くなったのがわかる。
と、背負っている荷物が黄泉の背中に触れたのがわかって、船長は苦笑した。



「まさかおめえと背中合わせる日が来るとはなあ」

「私もだ。どこかの他人に背中を任せて戦うなど、ひどく久しい」

「どっかの他人……そりゃひどい言い様だ」



こうして言葉を交わしている間にも、魔物たちはじりじりと距離を詰めてくる。
一瞬でも隙を見せれば襲いかかってくることは間違いないだろう。船長は改めて槍の柄を強く握り直した。
それにしても数が多い。見たところ十、いや十五……、それ以上いるのではないだろうか。
北大陸の海ではあまり魔物は襲ってこなかった。それゆえに槍を握る機会も少なく、腕が鈍りがちなのは当然のことだ。
魔物と戦えない間、自分なりに鍛錬を積んではいたが、やはり心配なものは心配である。
この先でも魔物に襲われることは間違いない。そのためにもこの戦闘で勘を取り戻しておかなければ。



「よっしゃ!行くぜ、黄泉」

「ああ」



大地を蹴ったのはほぼ同時。
槍と鉄爪が陽光のもとに煌めき、魔物たちの肉体を切り裂こうと掲げられた。

数十年間海の上で鍛えられたバランス感覚は伊達ではなく、積もった雪に足が沈むものの取られることはない。
魔物たちの爪や牙をかいくぐりながら心臓を突き、首を刎ねる。
背後の殺意に感じ取り、振り返りざまに大きく槍を振るとまさに振り下ろされる直前だった魔物の腕が斬り落とされた。
あぶないところだったと息をつくも束の間、残った片腕の爪が鼻先をかすった。
直撃していれば確実に鼻をざっくりと持っていかれていたことが容易に想像できて、
船長は戦慄を覚えながらも槍を強く握り、魔物の胸を思いきり貫いた。
しかし、いくら首を撥ね心臓を突き頭を貫いても、一向に魔物の数は減る様子を見せない。
むしろ血の匂いを嗅ぎつけたのか、先程よりも増えているようだ。
このままではよくないと船長は舌打ちすると、間を開けるために後ろに跳んだ。



「おい黄泉、どうすんだ!?」



振り返らずに呼びかけると黄泉もまた後ろに跳び、再び船長と背中合わせになった。
鉄爪はすっかり血肉にまみれている。顔や衣服にも返り血が少々付着していた。



「さっきよりもずっと数が増えてんじゃねえか。これじゃ埒があかねえ」

「そうだな、時間の無駄だ」

「くそっ、どうにかしてここを抜けねえとやべえことになっぞ」

「しかし、久々のご馳走をみすみす逃してくれるような真似はこいつらには臨めないな」

「だったらどうしろってんだ!ぐずぐずしてたらあいつらが」



船長が言い終わらないうちに黄泉は振り返り、彼の肩を掴むと魔物の目から隠すように自分の背後へと追いやった。
結果、彼女ひとりが大量の魔物と対峙する形になるのは当然のことで。



「ちょいと待て、女ひとりに任せちまうわけには……」

「風操力で一気に片付ける。そうした方が早い」

「いや、それはそうだけどよ!」

「下がっていろ。二度は言わないぞ」



そう言って睨む黄泉の迫力は相当なもので、立派な海の男である船長でさえ首を縮こませた。
まんま蛇に睨まれた蛙である。ようやく引き下がった船長に溜め息を吐きつつ、黄泉は殺意を纏いながらその一歩を踏んだ。
気圧された魔物たちがじりりと下がる。漆黒の髪が白銀に染まり、それにつれて風は激しくなっていく。
船長はぶるりと震えた。船を襲う魔物の退治の最中に彼女の力を目にすることは幾度もあった。
だから、どれだけそれが絶大な力なのか理解していた。いや、していたつもりだった。
自分たちは、あの力の一片しか見ていないに過ぎなかったことを、思い知らされざるを得ない。
船長は再び震えた。これほど心がざわつき、落ち着かない空気は初めてだった。

黄泉の唇が静かに動き、ついに空気が振動した。
海で鍛えられた直感だろうか、船長は反射的に雪に膝をつき、縋るように手近にあった木の枝をしっかりと握りしめた。
途端、ごおぉっと強い風が吹き荒れる。目を開けていられないのはなおのこと、
うっかり油断などすればたちまち崖下へと吹き飛ばされてしまいそうだ。
耳鳴りの隙間から、魔物たちの悲鳴、咆哮が微かに聞こえてくる。地面を削り、肉を切り裂く音も例外ではない。
やがて音が止み、風も頬を優しく撫でるほどに弱まり始めた頃、船長はそっと目を開けた。思わず呻き声が漏れる。
血に染まった骸が散らばる惨状など見慣れてはいるが、進んで見たいとも思わないのも確かだ。
そうして鮮明な赤に染まった白い大地のなか、ひっそりと佇んでいる黄泉の姿は一際目立っていた。
表情はいつもとまったく変わりない。ただ、先程よりも返り血がひどく多くなっている。
見えない刃に躯を引き裂かれ、地に倒れまたは崖下に落ちていった魔物たちのものであることは言うまでもないだろう。
しかし、彼女はそれをまったく気に留める様子を見せない。
長い衣の袖で乱暴にぐいと拭き取ると、未だ伏せたまま木の枝を掴んでいる船長に目を向けた。



「これでしばらくは寄ってこないだろう。行くぞ」

「お、おう」



よろめきながら、船長は立ち上がった。少々体が冷えている。
先程まで吹き荒れていた風と、凄惨な光景を目にして血の気がひいたせいだろう。
魔物と戦って体を温めるどころか、逆に肝を冷やしたとは、笑えない冗談だ。

それから大分登り、頂上が見えたところで、いったん休憩ということになった。
やれやれと腰を下ろし、船長は背負っていた荷物を雪の上に下ろし、槍を手元に置いた。
魔物たちは、黄泉の力を恐れて襲いかかってはこなかったが、隙をついてこないとは限らない。
リュックから取り出した火打ち石と薪で火を熾し、鍋に水筒に入れたスープを注ぐ。温まるのには時間がかかりそうだ。
こういう時に魔法が使えれば、高温の炎で一瞬にして温めることができるのになあ、とぼんやり考えた。
今回のことが無事に片づいたら、ウンディーネかクラウドにでも、簡単な火の魔法でも教わってもいいかもしれない。
スープが温まるまでの間、食事をすることにした。固い葉で包み、ヒモで縛ってある食べ物を黄泉に手渡す。
包みを開いたはいいが、凍っていないといいのだが……。
用心深くつついてみると、弾力のある触感が返ってきた。読みが外れたことに胸を撫で下ろす。
有難く咀嚼しながら、ちらりと黄泉を盗み見ると、なんと顔下半分を隠している覆面を外していた。
素顔を見るのは初めてで、なるほど、と声を上げたくなる。アリヤが一目惚れするわけだ。
ウンディーネとはまた違うタイプの美人である。



「何だ」

「んっ?ああ、すまんすまん。しかしおめえ、美人だなあ。これで愛想が良けりゃもっと良いのにな」



知ったことか、と黄泉は船長から目を逸らした。照れ隠し……ではないだろう。

今更だが、黄泉は本当に愛想が悪い。
無言でいるのが何だか気まずくて、道中、船長はとっかかりになればと二言三言話したが
黄泉がそのとっかかりに乗ってくることはなかった。良くて一言、悪くて無言、だ。
終いには、言い終わらないうちに「黙って歩け」と一蹴された。
もともと口数少ない方だしな、と船長は苦笑するほかない。



「どうせなら、楽しくおしゃべりしながら行こうじゃねえか。天気もいいことだしよ」

「……そんな軽い状況ではないことがわからないほど、お前は頭が悪いのか」



おや、と船長は目を瞬いた。黄泉の声が、どこか苛ついているように聞こえたのだ。
それはまるで、葬式の最中にふざけ合う幼い子どもを叱るような、不謹慎な行為を咎めるようだった。
まさか、もしかして。いや、勘ぐりすぎだろうか。首を捻る。
もし黄泉が本当にスパイだとしたら、とっさにこんな態度を取れるだろうか。
船長のしつこさに苛ついただけ、という可能性もなくもない。というか、こっちの可能性の方が高い気がする。
口軽くおしゃべりできるほど、気楽な状況ではないことくらい重々承知している。
自分の可愛い娘が、部下たちが死の淵に瀕しているのだ。いくらポジティブな船長でも気が重くなってくる。
だからせめて、山登りの道中は、表面だけでも楽しく行こうと思ったのだが。
アリヤやヘビスじゃあるまいし、乗ってくれるとは思ってはいなかったが、まさか咎められるとは思っていなかった。
せいぜい、無視を決め込まれるものかと予想していたのだが――――
ということは、である。黄泉はスパイではないのではないか?
これだけでは根拠は弱い。ティルにも指摘されるだろう。それじゃ駄目ですよ、甘いですよ。
けれど、船長は今まで、敢えて口にしなかったことがある。ティルも知らないはずだし、誰にも言わずに隠していたことだ。



「黄泉、おめえ丸くなったよなぁ」



船長の言葉に、黄泉はうんざりしたような表情で眉をひそめた。
ははあ、と船長は顎に手をやる。この様子だと、ティルあたりにも指摘されたのだろう。



「会った頃のおめえなら、困ってるオレ様たちのことを眺めてるだけだったろ?
それが自分から行くなんて言うとはなぁ。これでアリヤも、少しは報われるってなもんだ」

「………」

「助ける気にはなったのは、モモカがいたからか?」



返事はない。
だが、一瞬、黄泉の目が泳いだのを船長は見逃さなかった。



「黄泉。お前、モモカといつ知り合った?」



返事はない。
無視か、と少々落胆したが、数秒後、返事は無事返ってきた。
どうやら、どう返すべきか考えていただけのようだ。



「初めてお前の船を訪れた日だ」

「……なら、四年前。オレの船の甲板で」



船長は下唇を舐めた。ここで口に出していいことだろうか。少々憚られた。
けれど尋ねなければならない。これ以上、黙ってはいられない。
ちょっと待て、目的を違えてないか、と思った時には、既に口は動き出していた。



「モモカと、お前によく似た黒髪の娘が何もないとこから現れたのは何だってんだ?幻か?」



―――もともと凍るような寒さだった空気が、更に冷え込んだ気がした。
黄泉は何も言わない。ただ、食べる手は止まっている。動揺しているのだろうか?
だが、その無表情からは何も掴めない。いつもの覆面を外しているにも関わらず、だ。
船長は黄泉から視線を外し、海の上とはまた違う色をした、青空を仰ぎ見た。


「ひとつ答えちゃくれねえか。モモカは……娘は、何を隠してる?」

「……話すわけにはいかない」

「何か知ってんだな?」



返事はない。
数秒の後、鍋のスープから湯気が立っていることを指摘されただけだ。
黄泉の無言は、何を指していたのか、船長にはわからなかった。
言葉に詰まっていたのか、呆れ返っていたのか。それを知る術を、船長は持ち合わせていない。
恐らく、これ以上聞いても、黄泉は重い口を開いてはくれないだろう。

事を急ぎすぎてしまったか。小さな器にスープを注ぎ、微かに溜め息を吐く。
ふと、先日、ティルに発した言葉が脳裏をよぎった。黄泉の心を見極めたい。そう言ったのを覚えている。
彼女はスパイなのか、そうではないのか。いったい何を考えているのだろうか。
スープをすすりながら考えてみる。体の中に、じんわりと熱が広がっていくのが心地良い。
黄泉はスパイではない、と思う。……が、そう思いたいだけかもしれない。
今必要なのは、客観的に物事を見据え、考える事である。主観的に見るのも悪いことではないが、真実を見失いがちだ。

休憩を終え、再び歩き始める。
先程よりも重い空気が漂っているように思えて、船長は軽口をきける気にはなれなかった。
その後、一度だけ休憩を挟んだことを除けば、二人はひたすら山を登り続けた。
真っ白い山道に足跡を刻み、枝の手を掴み、ただただひたすらに。
船長は逸る気持ちを必死に抑えて。黄泉は本人すら気づいていない僅かな焦りを足に乗せて。
太陽がすっかり昇り、南に位置する頃、目の前が開けた。――――頂上だ!



「ここ、か」



船長は一気に息を吐き出した。
体を動かし続けていたおかげで寒さは感じない。むしろ暑いくらいだ。
しかし息は荒く、足も心臓もずきずきと痛む。やはりもう歳か。
ふと空を仰いで、その近さに驚いた。鮮烈な青がすぐそこに広がっていた。
海の上では、船の上では絶対に拝めないような、目に痛いほど鮮やかな色の青。
ちょっとした感動に思わず見惚れそうになったが、ぼんやりしている暇はないことにすぐに気が付いた。



「黄泉!」



薬草は、と尋ねる前に、既に黄泉は動いていた。
ゆっくり歩きながら辺りを見回し、雪に埋まりかけている緑色に目を光らせる。



「おい、どだ?ありそうか!?」

「静かにしていろ。今見つける」



言った直後に、黄泉はある一点に目を留めた。もしや、と思い、船長は期待を込めて口を開く。



「おい!」

「…間違いない。これだ」



見つけたか…。船長はほっと胸を撫で下ろした。これで娘たちも助かるはずだ。早く持って帰ってやらなければ。
慌てて駆け寄ると、黄泉の手の中には既に一束の草が握られていた。船長は再び安堵に息を吐き出した。
黄泉から受け取った薬草を、腰に携えている道具袋に優しく入れる。これが娘たちの命を握っているのだ。乱暴には出来ない。



「急いで山を下りんとな。間に合わなくなんぞ!」

「わかっている。さっさと行くぞ」



音もなく黄泉は踵を返す。船長も一歩遅れて彼女に続いた。そうだ、急がなければ。
こうしている間にも、毒は娘たちの体をゆっくりと蝕んでいるに違いないのだ。
いつもより近い場所に空がある。だから何だというのだ。それに見惚れている暇などない。
貴重な機会を逃すのは惜しいが、娘たちの命は惜しいどころではない。
一刻も早く麓で待機しているアルフレッドと合流し、移動魔術で船まで運んでもらおう。
船ももうすぐ近くまで来ているはずだ。最後にひと頑張りだ。
そう思って足を踏み出した瞬間、鈍い音と衝撃が彼を襲った。思わず後ろにのけぞる。
……どうやら、急に足を止めた黄泉の後頭部と船長の顎がぶつかったらしい。
しかし黄泉は微動だにしていない。ぶつけた頭を痛がる様子も見せず、ただ前を見つめている。



「おいおい、どうしたんだいきなり立ち止まっちまって。急がなきゃいけねえのはおめえもわかって……」



顎をさすりさすり体勢を立て直し、黄泉と同じように前を見据えたところで、船長は硬直した。
視線の先には獣がいた。ふさふさした毛皮に隆々とした肉体を包み、太い手足には真っ黒い爪が光り、
大きな口からは鋭い牙と真っ赤な舌が覗いている。背も高い。2mはゆうにあるのではないか。



(熊だ)



山に入る直前、門番から忠告をもらった通りだ。まさか本当に出るとは思っていなかったが……。
魔物ではない。が、今の状態では魔物と同じく凶暴には違いない。
唾液の垂れる口から、獣特有の唸り声と白い息が断続的に立ち上っている。



「おいおいおいおいちょっと待て、どういうことだこりゃあ。
こんだけ山が真っ白けで寒いってのに、なんで冬眠してねえんだよ?」

「まだ準備段階だと言ったろう。……どうやら薬草を狙っているようだな」

「熊は肉食だったと思うんだがな」

「最近の熊は草も食べるんだろう」



船長は思わず舌打ちした。こんなところで邪魔が入るなんて。
山に入る前にあんなことを言ったものの、魔物でもない獣を屠るのは少々抵抗がある。
しかし、あちらは船長が持っている薬草を殺してでも奪い取るつもりだろう。
もちろんこちらも渡すつもりは毛頭無い。しかたなく、船長は背中の槍に手をやった。

























































ふう、とアルは溜め息を吐き出した。
船長と黄泉の二人が門の向こうに消えて、数時間が経った。
しかし二人が帰ってくる気配は未だ無い。太陽はとっくに昇りきり、もはや夕方にさしかかっている。
何かあったのだろうか。もやもやとした不安がぐるぐると心をかき乱していく。
いや、きっと大丈夫だ。山に不慣れなせいで、少々手間取っているだけなのだろう。
不安を打ち消そうと思い、手元のキセルを吸った。環状の煙を、ぽうっと遊ぶように吐き出す。
アルは今、門番の小屋にいた。外で待つのは辛いだろうと、門番たちが招き入れてくれたのだ。
中では暖炉の火が小さく燃えている。寒さに耐える覚悟をしていただけに、ありがたかった。
自分たちは突然やってきた余所者だというのに。視線を手元のキセルから窓へと移す。
外では、日の光が雪に反射してきらきらと小さく光っていた。ただ、その光にオレンジ色が射しているのが見て取れる。



「アニアニクネグ?アティスオヅ?」(どうした?元気ないな?)



交代の時間まで休憩していた男が、心配してくれたのか声をかけてきた。何でもないんだ、とアルは首を横に振る。
黄泉ほどではないが、ここの言葉は少しなら理解することができる。
それにしても黄泉のラエル語は見事だったな、と思い返す。現地の人間と比べても遜色がない饒舌さだった。
言葉がわからなくては仕事に支障をきたすだろうし、以前に教え込まれたことがあるのだろう。

一連のことに礼を言うと、気にするなと男は笑った。俺はあいつが気に入ったのだ、だとも。
あいつとは黄泉のことか。確か、黄泉が山に入るために交渉していた相手は彼だった。
男はラエル語に不慣れなアルのために、ゆっくり喋ってくれる。先程から心遣いがありがたい。



「アヒコタツティオティアテクサトワマカヌ、イヌコツ。アティエティアヤガカヘガデム、アガドヨニマイネクキ」
(一見闇のようだが、目だけは輝いていた。特に、仲間を助けたいと言った時は)

「なんだって?」



男の言葉を頭の中で訳せた瞬間、アルは思わずそう口走っていた。
慌ててラエル語で言い直した後、彼女は本当にそう言っていたのか?と尋ねた。
男は怪訝な顔をしながら、間違いないと頷いた。
あの時、黄泉も男も今よりずっと早口で喋っていた。アルが聞き取れなかったのは無理もない。
だが、そんなことを言っていたとは……やはり、人は見かけに依らないと言うことか。
帰ったら、船長に伝えるべきかと思ったが、特にその必要はないだろう。
彼等がどれくらいの期間一緒にいるかはわからないが、仲間ならば助けたいと思うのは当然のことだ。
またキセルを吸ったところで、男が話しかけてきた。ところで、と。



「アコナニアトジャヌキカハマカノニタティミク、アホトクイオタドユティハグオスカヨナ?」
(あの薬草が必要だと言うことは、君たちの仲間は危険な状態なのか?)

「アヅナミセテラライヌコゾ」
(毒にやられてしまったんだ)



魔物にか、と男は顔をしかめた。日々魔物と命のやり取りをしている彼にとって、魔物は忌むべき存在なのだろう。
動物たちとは違って、魔物は人の血肉を求めて襲いかかってくる。
魔物というカテゴリの中で食物連鎖を組んでくれればよかろうに、奴らは人の味を好むのだ。
彼等の毒は魔物からでなく、人から受けたものだったが、いちいち訂正するのも面倒だ。アルはそのまま頷いた。
すると、助かることを祈っているよ、と男は肩を叩いて励ましてくれた。
キセルの灰を小さな容器に落とし、立ち上がる。コーヒーはどうだと勧められたが、丁重に断った。
壷に残りの葉を移し替えてキセルを仕舞う。ここのはまずいからな、と男はまた笑う。
そのまま立ち上がり、アルは窓の側に立った。外を覗いてみるが、まだ帰ってくる気配はない……。
アルはまた溜め息を吐いた。彼等は、大丈夫だろうか。
やはりコーヒーをもらおうかと振り返ったその瞬間、視界の隅に何か黒いものが見えた気がして、
アルは再び窓の外を見た。そこには、今まさしく門をくぐったところの船長と黄泉の姿があった。
飛び上がる思いだ。男が驚くにも構わず、扉を殴るように開けて外へ出た。



「船長さん!」

「おう、待たせたな!採ってきたぜ!」



そう言って、船長は腰の道具袋を掲げてみせた。
あそこに薬草が入っているのか…アルは、安堵に胸を撫で下ろした。



「行くぞ。時間がない」

「ああ。二人とも、つかまって!」



自分の肩を二人が掴んだことを確認してから、アルは印を結んだ。
後は自分がうまくやればいいだけだ。ただただ意識を集中し、飛びたい場所を強くイメージして、文言を唱えるだけ―――



「オウヌオク!」(幸運を!)



文言を唱え終わった瞬間、いつの間にか外に出ていた男が手を振っていた。
やばい、とアルは奥歯を噛んだ。今ので集中が乱れてしまった。練り上げた魔力が崩れていく。
もう一度最初から練り直そうにも、既に魔術は発動してしまっていた。
三人は光に包まれ、弾けるような音とともにその場を後にした。


目を閉じたまま、参ったなとアルは思った。
船以外の場所に着いているのは間違いない。失敗してしまった。けれど、さっきの男を責める気はない。
決して邪魔をする気はなかっただろうし、あのようなことで集中を乱した自分が未熟なのだ。
過ぎたことを嘆いているより、これからのことを考えた方がよっぽど良い。
さて、どこに辿り着いてしまったのか。恐る恐る、目を開けた。



「船長!みなさん!」



思わず、アルは目を瞬いた。自分がいた場所は見覚えがあるものだったからだ。
ベッドに寝かされ、苦しそうにしている五人の男女。その傍らで銀髪の少女が驚いた表情でこちらを見ている。
すぐ近くで、船長とドレッドヘアーの船医が真剣な表情でやりとりを交わしている。
あれ、医務室だ。てっきり失敗したと思っていたのに。



「ほれティル!薬草だ!早く何とかしてやってくれ!」

「煎じる必要はない。一口分にちぎって口の中に押し込んで飲み込ませろ」

「はい!」



呆然としている間にも、目の前の光景は次々に流れてゆく。
失敗したと思ったのに、無事目的地に着いている。夢ではないかと思ったが、
視覚も聴覚も、こんなにはっきりしているのに現実ではないわけがない。
あの時、確かに集中が乱れたのに。絶対に失敗したと思ったのに。
――――不意に、まだ少年だった頃を思い出す。父に移動魔術を教え込まれていた時のことだ。
集中できずに失敗ばかり繰り返していた自分を、父は叱責した。

「立派な魔術師ならば、少しくらい集中を乱されても魔術を成功させるものだ」、と。

そうだよな、とアルは人知れず微笑んだ。



(……俺だって、父さんの血を継いでるんだ)



一方、ウンディーネは涙が滲む思いで目の前の光景を眺めていた。
これでみんな助かるのだ。大切な人たちと、また別れることにならなくて済むのだ。
こうなってはじっとしていられない。自分もティルの手伝いをしなくては。
彼女は立ち上がり、ティルから薬草を一枚と水を一杯受け取ると、ベッドへと急いだ。
まずはネルーだ。薬草を一口分にちぎり、口を開けさせて押し込み、水で飲み込ませるようにする。
毒のせいで意識が朦朧としているせいか、思ったより簡単に飲み込んでくれた。クラウドにも同じように飲み込ませた。
見ると、ヘビス、モモカ、アリヤの三人も既に薬草を飲み込まされたようだった。
船長とティルが幾分緊張の和らいだ顔をしている。アルも同様だ。黄泉は……相変わらず表情が読めないが。
やれることはすべてやったはずだ。予想していたよりも早く三人は戻ってきてくれたし、
毒に冒されている五人も、生の境界にぎりぎり踏み留まって待っていてくれた。
ウンディーネはほうっと安堵の溜め息を吐き出した。後は意識を取り戻してくれれば――――
飲んですぐに効果が出るわけではないことはわかっている。
数分経った後に、苦しそうな表情から幾分和らいだ表情になったが、未だに意識は戻らない。
その目が開くところが、その口が言葉を紡ぐところが、その体が動くところが早く見たい。
早く起きてと、何度そう願っただろうか。誰も一言も喋らなかった。
一度、ティルが全員の着替えを取りに行き、戻ってきた時に変わっていない状況に溜め息を吐いただけである。
何十分経っただろうか。最初に意識を取り戻したのはアリヤだった。



「う……」



全員が一斉に振り返る。今、まさにアリヤが目を開けようとしていた。
慌ててティルが駆け寄り、軽く頬を叩いた。瞼が上がり、優しい緑色が覗く。その瞬間、安堵の声が医務室を包んだ。



「アリヤ!大丈夫ですか?」

「おめえ、毒にやられてたんだぞ!」

「あ?あー……」

「船長さんと黄泉さんと、アルさんが薬草を採りに行ってくれたんです」

「こっちも目が覚めたみたいだよ」



アルが指し示した先には、きょとんとした表情で辺りを見回すヘビス、
だるそうに上半身を起こそうとしているモモカ、眠そうに目を擦っているネルーの姿があった。
安心して緊張の糸が切れたのか、背中を壁に預けながら、アルはその場に座り込んだ。
そして船長は喜びに目を見開き、ようやく上半身を起こせたところのモモカに抱きついた。



「ちょっ、お、お父さん!?」

「モモカ、大丈夫か?もうどこも苦しくねえか?」

「だ、大丈夫よ!っていうか、むしろお父さんのせいで苦しいわよ!」

「船長さん、娘サン病み上がりなんだから、丁重に扱ってあげなきゃ」

「ネルー、ヘビス。二人もまだ寝ててくださいよ。しばらくは絶対安静ですからね」

「う、うん。ありがとう」

「ぜんっぜん大丈夫やけどなぁ。ま、お言葉に甘えとくわ。おおきにな!」

「クラウド!」



四人にやや遅れて、意識を取り戻したクラウドにウンディーネは駆け寄った。
クラウドはぱちぱちと瞬きをして、顔だけ持ち上げて辺りを見回した後、すぐに枕に頭を預けた。



「クラウド、大丈夫?」

「ああ…うん。俺、なんでこんなところにいるんだっけ」

「あの人の針に毒が仕込んであったの。船長さんたちが薬草を採りにいってくれたんだよ」

「……悪い。心配かけただろ」



ううん、とウンディーネは横に首を振った。
今にも涙が零れ落ちそうだったが、必死に堪えていた。病み上がりの彼に気を遣わせたくはないからだ。
けれど、これ以上喋るとさすがに泣きそうだ。着替えとタオルを渡し、精一杯の笑顔を見せてからカーテンを閉めた。
クラウドは鋭いから、きっと気づかれていただろうけれど。
それを口に出すほど野暮な男ではなかったはずだ。頬に両手を添えて、ウンディーネは微笑んだ。



「体の具合はどうだ」



不意に黄泉が問いかけた。誰に、というわけでもなかったが、自然にアリヤが受け取っていた。
ただ、誰よりも多く針が刺さってしまっていたせいか、アリヤは未だに少しぼうっとしているようだった。



「ああ、まだ少しだけ苦しいけど……大丈夫だ」

「……そうか」



ふ、と黄泉の顔がほころんだ。
覆面越しではあるけれど、初めて見た彼女の笑顔。
――――それに対する驚きよりも先に、アリヤは頬の紅潮を感じていた。



「そうだおめえら!オレ様とアルにもだが、黄泉にも感謝しろよ!」

「何よ急に?」

「おめえらを助けるために、まさに八面六臂の大活躍だったんだぜ。
山に入るために門番と交渉するわ、魔物たちを追っ払うわ……」

「ええーっ!ほんまかいなそれ!」

「おうともよ!そうだな、特にすごかったのはアレだな」

「船長」



黄泉が制止の声を発したが、船長の勢いは衰えない。



「山頂で薬草を採って、さあ帰ろうってなった時にだ。熊が出たんだよ。
熊だぜ熊!体長2mはあったなぁありゃあ。オレ様たちの薬草を狙ってたんだ。
肉食のくせに草を食うんだな。貴重な薬草は動物にも大人気ってわけだ。
で、だ。オレ様が背中の槍に手をかけた時に、それは起こったのよ」





























やむを得ないと背中の槍を掴んだ時だった。目の前から異常なほどの殺気を感じたのは。
熊からではない。獣が出す殺気などたかが知れている。ということは、これは。
先程の魔物との戦いでも、こんなに強い殺気は発していなかった。
思わず全身が粟立つような―――殺気だけで殺される。そんな気がした。
武器も構えずに、彼女は一歩前に進み出る。殺気に押された熊が、じりりと後ずさった。



「……私の」



感じられるのは、殺気だけではなかった。今にも爆発しそうな怒り。
空気がぴりぴりと震えている。黄泉の顔は、普段冷徹な彼女からは考えられないような怒気に満ちていた。



「私たちの邪魔を、するな」



黄泉が言葉を発した瞬間、熊はびくりと体を震わせた。
今や耳と尾は垂れ下がり、先程までの唸り声さえも聞こえない。
更に黄泉が一歩を踏み出した時、既に戦意を失っていた熊は背を向け、茂みを揺らして雪を落としながら逃げていった。
ふう、と黄泉の口から溜め息が落ちる。ぴりぴりとした空気は消え、殺気も怒気も黄泉の体から消えていた。



「何をぼうっとしている。急ぐぞ」



その声で現実に引き戻される。先を行こうとしている黄泉を、船長は慌てて追った。





























「……とまあ、こんな感じだ。邪魔されたのがよっぽど気に食わなかったんだな」

「そりゃあ仲間の命がかかってるからね。でも、あなたがそこまで怒るなんて想像できないな」

「貴様ら、いい加減にしろ」



耐えきれなくなった黄泉が、笑っている船長とアルを鋭く睨め付けた。
だが、その顔は少々赤みが差している。照れ隠しに怒っているのは明らかで、
それがなんだか可笑しくて、睨まれた二人だけでなく、ウンディーネたちもまた笑った。
声を上げて笑ってはいないが、ティルも笑いを堪えている。そして、言った。



「丸くなりましたね?」



黄泉はもう何も言えなくなったのか、壁に体を預けてうつむいただけで
以前のようにその場から姿を消そうとはしなかった。それがティルへの答えのように思えた。
ひとしきり笑って、ウンディーネはほうっと息を吐き出した。ああ、心が安らいでいる。
みんな生きている。誰ひとり欠けることなく、みんな元気に笑って喋っている。
当たり前のことに思えていたけれど、当たり前ではなかったのだ。
今、それがただただ嬉しくてしかたない。失ったものを取り戻せた気分だ。
そして、黄泉を疑った自分をひっそりと恥じた。こうしてクラウドたちを助けるために頑張ってくれたのに。
以前はどうだったかわからないが、今では自分たちを仲間と思ってくれているようだ。
ウンディーネは、うつむいている黄泉を見て思った。結果オーライ、と言うべきなのだろうか。
クラウドたちはいっとき命の危険に曝されてしまったが、そのおかげで黄泉の気持ちがわかったのだから。
ただ……敵とはいえ、自分はヒトの命を手にかけてしまった。この罪はどうすれば償えるのだろうか。
考えていると、突然のモモカの声で現実に引き戻された。



「そうだ!あんた記憶はどうなったのよ!」

「そういえばそうや!なぁネルー、大魔法は成功したんやろ?」

「うん。ただ発動した直後はまだ……」

「じゃあ…」



モモカ、ヘビス、ネルー、アリヤ、そして着替えを終えてカーテンを開けたクラウドが、一斉にウンディーネを振り返る。
どうするべきか少々思案したものの、彼女は微笑み、しっかりと頷いた。
――――医務室に、歓喜の声が沸き上がった。
























































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あとがき

なんだか駆け足な19話でした。
とりあえず大団円。黄泉が人間らしくなり、アルのコンプレックスが解消されて、クラウドたち五人が助かりました。
ところでラエル語なのですが、一部を除いてすべて母音から始まってます。(アとかイとか)
これは一度台詞をローマ字に直して、逆から読んでるからです。ティはtiになったりします。
お暇でしたら、前半のラエル語の訳に挑戦してみてください。

ではまた次回に。