――――何が、起きた?


傷の痛みも忘れてクラウドは目の前の光景を焼き付けるかのように見つめた。
ウンディーネの右腕。異形のモノが命を脈打ち、その長い刃をギラギラと光らせている。
そして伸びている触手はスークの振り上げた腕を捕らえ、ぎりぎりと締め付ける。
捕らえられたスークはかというと、その顔を驚愕と焦燥に彩らせていた。



「死ぬのは、あなた」



すっ、とウンディーネは獣人を見やる。
その時の彼女の瞳は、すべてを理解しているような落ち着き払った瞳。
今まで見たことのないような、怖い瞳。



「ごめんなさい。私たちはまだ死ぬわけにはいかないの。――――それに私は、」



ウンディーネが構えたと同時に、スークはびくりと体を震わせた。
彼女の殺気が増したからか――――……それとも、



「愛する人たちを、見殺しにしておけないのよ」



自分に降りかかる火の粉は、もう振り払えないと知ったからか。





そう、思い出した。
私は何者なのか、何故ここにいるのか。

私が今すべきこと。


それは


みんなを傷つけたこの人を、殺すこと。



「悪く思わないでね。……やったらやりかえされるんだから」

「っ…ふざけないで。あなたみたいな小娘ひとりに、殺られるなんて……」



声が震えてる。訪れるかもしれない死の恐怖に怯えているとでもいうの?
今までたくさんの人を殺してきただろうに、何を今更。

大切な人を傷つけられること。
それがどんなにひどく苦しいことか、この人はわかってない。



「ウンディーネ……?」



クラウドが私の名前をつぶやくように呼んだ。
いつもの私と違う風に見えるの?
そうね、少し雰囲気が違うかもしれないわね。



今の私は、殺気にまみれているから。


























































カミノウタ



第17話

−メタモルフォーゼ−





























































部屋は耳鳴りがするほど静まりかえっている。
聞こえるはずのさざ波が聞こえない。海は口を噤んでいる。
自分の鼓動だけが大きく、ゆっくりと聞こえた。

いったい彼女はどうしてしまったのか。
心は殺気にまみれていて、心には慈悲なんて言葉も気持ちも、ひとかけらもない。

右腕が脈打っている。これは、ルムの鼓動?



「手を…っ、離しなさい!」



そう言うスークを彼女は睨め付け――――そして、微笑んだ。



「うあぁぁっ!?」



先程よりも強く、触手はスークの手首を締め付けた。
その骨が砕けてしまいそうなほどに。ずっとずっと、強くだ。


ゴキン


嫌な音が響いたあと、スークの手首はぶらりと力無くうなだれた。
そしてそれと同時に触手は離れ、スークは地に落ちた。動かない手首をじっと見つめる。



「痛い?」



その言葉で我に返り、スークは顔を上げた。



「だけど、あなたはそれ以上の痛みをたくさんの人たちに与えたのよ」

「何を小癪な……私はそれを生業にしてるの。小娘に説教されるいわれは……っぐぅ!!」



再び伸びた触手はスークの首を締め付け、持ち上げた。
きらり、と刃が光る。彼女は横に首を振ってから、寂しそうな微笑みを浮かべた。



「聞きたくないわ」



そして次の瞬間には、スークの身体は壁に叩き付けられていた。
ぱたたっ、と血が滴り、何もかもを朱に染めていく。
アルの背筋に戦慄が走る。恐怖に思わず目を背けた時、絨毯に滲む血が視界に入った。
たどっていけばその先にいたのは顔面蒼白で倒れているクラウドの姿。
既に意識はないようで、出血もいまだに激しい。このままでは出血多量で死んでしまう!
手段はどうあれ、今はウンディーネがスークを引き留めてくれている。
クラウドの傷を癒せるのは自分だけだ。祖父の身体をそっと床に下ろして、アルは駆けつけた。



「おい、大丈夫……じゃないか。生きてるか?」



軽く頬を叩いてみると、微かではあるが反応があった。
まだかろうじて生きているようだ。アルはほっと胸を撫で下ろした。



「ちょっと痛むかもしれないけど、我慢してくれよ」



まずはうつぶせに倒れている彼の身体を仰向けにしなければならない。
脱力している人間の体重は遙かに重くなる。それでもどうにか仰向けにさせると、アルは文言を唱えた。
ありったけの魔力を込めて。せめて傷口がふさがり、血が止まるくらいまでには。
クラウドの傷口を優しい光が包む。光が収まる頃にはかろうじて傷口はふさがっていた。
アルは汗びっしょりの額を拭って胸を撫で下ろした。あとは彼の体力次第だ。
そして、残るは――――



「狙いがはずれたみたい」



深く、長く。
左肩から腰まで斬られた身体から、とめどなく血が噴き出ていく。



「本当はすぐに楽にしてあげたかったんだけど……ごめんね。こういうことは慣れてないから」

「お前もここで終わりか、スーク。短い付き合いだったな」

「こんなの…冗談じゃないわ……この、私が…返り討ちだなんて……そんなの…!」



咳が漏れ、血が吐き出される。助かる見込みは既にない。
だがそれでも折れていない方の手を壁にぴたりとつけ、スークは嗤ってみせた。
眉をひそめて黄泉は口を開いた。その髪はだんだんと漆黒に戻りつつある。



「逃げる気か」

「小娘に殺されるなんて……まっぴらなのよ」

「阿呆か。どうせ逃げても――――」



スークは横に首を振った。



「置き土産、しておいたわ。せいぜい野垂れ死ぬことね……!」



ウンディーネが刃を振り上げたが、それは耳障りな音に制止された。



「それではごきげんよう、王女さま」



苦痛を堪えた、けれどどこか余裕を感じ取れる声だけを残し。スークは空気に溶け込むようにして消え去った。
その場に残された禍々しい血痕を目の前にウンディーネはすとんと膝をついた。
すっかり力が抜けてしまったようでその瞳は虚空を見つめている。彼女が呆けている、まさにその時だった。



「あ…?」



アルは驚いて、少し目を見開いた。黄泉がヘビスの傍らで片膝をつき、何やら様子を診ている。
てっきり氷のように冷たく、他人などには興味を示さない人だと思っていたのに。



「おい、アルフレッドとか言ったな」



黄泉が突然こちらを向いたので、アルはまたもや驚いて目を白黒させた。
倒れている五人を見回しながら黄泉は言う。



「お前、移動魔術は使えるか」

「?一応……」

「私たちの船までは?」

「まあいけないこともないとは思うけど……何かあるのかい?」



答えず、黄泉はいまだ呆けているウンディーネに近付いた。
彼女の感情が収まったのを感じ取ったのか、ルムは姿を消していた。あるべき世界に還ったのだろう。



「いつまでそうしているつもりだ」



黄泉がそう言うと、ウンディーネはゆっくりと顔を上げた。目の焦点が合っていない。



「黄泉、さん…?」

「スークはとんでもない手土産を残してくれた。……奴らの顔色を見てみろ」



彼女は一瞬戸惑ったが、すぐに一番近くにいたネルーの顔色を窺ってみた。



「あ…?」



血の気がすっかりひいた青い顔。息切れは激しく、ひどく苦しそうだ。アリヤの方を見やってみれば、彼もまた同じさまだった。



「針に毒を塗っていたんだろう。このまま放っておけば、命はない」

「……!」



ウンディーネの瞳に光が戻った。きりりと拳が握られ、再び怒りがその身に宿る。



「黄泉さん、知りませんか。あの人の………」



しかし黄泉はかぶりを振った。



「あれは致命傷だった。万一の可能性で助かったとしても……。
それよりも今はこいつらをどうにかするのが先だ。まったく、厄介なことになったな」

「……急がないとやばいんだな?」



事の重大さを察し、口を挟んだアルに黄泉は無言で頷いた。



「それじゃ、みんなをひとっところに集めないとな。手伝ってくれ」



うなずいて、ウンディーネは立ち上がった。彼等の体をできるだけ揺り動かさないようにして運ぶ。
やがて五人を直線上に運び終えると、アルは手を繋がせるように言った。
なんでも体のどこか一部分が触れていないと、一緒に移動できないのだそうだ。



「そんなわけで、あなたたちも彼らと手を繋いでくれよ。服の端っこを掴んでもいいからさ。
もう片方の手は肩に置いてくれ。印を結ばなきゃいけないからね」



アルの肩にウンディーネは手を置き、またもうひとつの手でクラウドの手をしっかりと握った。痛いほどに強く。
黄泉も同じようにしたのを確認して、アルは文言を唱え始めた。




「慈愛に満ちる時の神よ。我ら汝の力により空間を渡らん!」




ぐいと頭を引っ張られる感覚に、何かが弾ける破裂音。そして、視界は光に包まれた。

























































薄暗い室内にどさりと音が響く。重い荷物が落とされたかのようだった。
もちろん落とされたのは荷物などではない。



「く…っ」



ぽたり、ぽたりと血が滴る。
スークは苦しそうに息を吐き、目の前に垂れる天幕を見つめた。



「これはまた痛々しい姿だな」



そこに浮かび上がるは人影。ゆらゆらと蝋燭の炎が揺れると、人影もまた揺らめいた。



「黄泉にしてやられたか」

「いいえ…王女です」

「……ほう?」



ドレットの声に興味の色が添えられた。



「ルムと呼ばれる召喚獣が王女の右腕と融合し…忌々しい異形の剣へと変化しました。
油断、しましたわ……まさか召喚魔術で…あそこまでやるなんて……」

「そしてお前はその刃に敗れ、黄泉も王女も始末し損ねたのだな?」

「……はい。申し訳ありません」



スークは呻き、傷口を押さえた。
ドレットに報告している間にも血はとめどなく流れ、彼女の命を少しずつ削っていく。



「お前を遣ったのは私の采配違いだったか。やはりここはメジストを遣るべきだったな」

「お待ちくださいドレット様!私はまだ戦えます!」



血が流れるのにも強くなる痛みにも構わず、スークは勢い良く立ち上がり、声を張り上げた。



「今回は少々油断しただけです!チャンスを下されば、次こそは必ずあの忌々しい二人を―――!」

「もういい。そんな深手でいったい何ができる。お前はもう戦えぬ」

「いいえ、このような傷!ほんの少し時間をいただければすぐに動けるようになりますわ!」

「スーク」



ドレットの声のトーンが落ちた。
恐ろしくなるほどに優しく、低く。



「この幕を通しても容易く理解できる。
お前に残された時間は残り少ない。わかるだろう?」

「………はい」



スークはがくりとうなだれ、気が抜けたように再び膝をついた。
目を伏せたことで、長い睫毛がそっと翳りを作り出す。



「お前はもう用無しだ。よって―――」



ゆらり。人間を感じさせないほど不気味に、ドレットは立ち上がった。
蝋燭はじりじりと炎を燃え上がらせ、スークが恐怖に後退る。周囲の空気が一変した気がした。



「お前は優秀な部下だった。このまま野垂れ死にさせるには惜しい」



天幕がめくられ、ドレットが姿を現した。
やせこけた――どちらかというとやつれている――顔に笑みを浮かばせて。



「お前はこの私の中で永遠に生き続けるのだ。忠実な部下としてこれ以上の幸せはあるまい……」



ドレットが一歩近づくたびに、スークが後退る。
スークが後退るたびに、ぽたぽたと血が滴る。



「ドレ、ドレット様…おゆるしくださ……」

「なぜ許しを乞う。もう死ぬ身だというに」



言ってから、ドレットは何かに気付いたかのようにはたと顔を上げ、それからにたりと微笑んだ。



「違うな。お前は―――"死ぬよりも恐ろしいことになる"」



その言葉にスークの顔色が豹変した。滑稽なほどに。



「ぃ…嫌……そんな、私は……」



彼女は逃げようとした。
だかそれは叶わなかった。既に腰が抜けていた。

それでも彼女は這って逃げようとした。
だがそれも叶わなかった。既にドレットに捕まっていた。



「私は………なんだ?」

「ひ…っ」



スークはぱくぱくと口を動かした。何か言っているようだ。
最期の言葉かと耳を傾けてみるとおよそスークのような人物からは考えられないような言葉を聞くことができた。



「あああっ……だれか、だれかたす、け………神さ…ま……」

「……神などに命乞いするとはな。失望したぞ」



次にスークが見たものは、半開きになった口から覗く、鈍く輝く鋭い牙。



「さあ……」




―――本当にどこにも傷がなくて、刺された痕も引き裂かれた痕もなかったらしい。
殺されたなら、絶対にどこか傷があるはずなのに。父の身体にはそれがなかったんだ。




「よこせ、お前の―――魂を!」




だからこう考えてる――――




「ぃ、や………いやあぁあああぁぁぁああああ!!!!」




父はその悪魔に、魂を喰われたんじゃないかって。










かつん



静寂を取り戻した部屋に硬い足音。
それはドレットのものではなく、床に倒れ伏すスークのものでもなかった。



「………ドレット様?」



榛色の瞳をした男、ドルだった。



「ドルか。何用だ?」

「いえ、悲鳴が聞こえたもので……」



ドルの視線はぴくりとも動かなくなったスークにまっすぐ注がれていた。目が離せないようだった。



「スークの魂を喰ったからな。悲鳴はそのせいだ」



目が見開かれ、視線は瞬間ドレットへと向かった。ドレットはそれをまったく気にしなかった。



「有効活用してやったのだ。任務に失敗し、ほとんど死にかけていた。
そのまま死にゆくよりも、食われ私の中で永遠に生き続ける方が幸福だろう?」



ドレットは天幕をくぐり、腰掛けた。いつもより元気そうに見えるのは、やはり魂を喰ったからか。



「私に魂を喰われたくなければ、お前も下手に任務に失敗しないことだな」



どことなく口調が弾んでいる。
おそらく、魂を喰うこと自体久しぶりだったのだろう。



「人間というのは本当に愚かだな、ドルよ」

「え?」

「スークはこうなる寸前、神に命乞いした。
したところで救われるはずがないのにだ。するのならば私にした方がまだ効果的だとは思わないか?」

「……そうですね。神頼みなど愚かな者がするもんです」

「だがそれでも私の体の糧となる。人間にもまだまだ利用価値はあるということだ。
ドル、それを片付けろ。外にでも放り出しておけば魔物どもが貪るだろう。私はしばし休む」

「………了解しました」



ドルは一礼し、スークの体を抱え上げた。溌剌とした毛並からはまだ温もりが感じられた。
踵を返し、扉を開く直前。蝋燭の炎が吹き消され、部屋が一瞬だけ闇に包まれた。

かつん、かつん。靴音が響く。
ドルは嫌な気分だった。吐き気がするし、胸がけったくそ悪い。
しかしその一方で、それの裏には恐怖が見え隠れしていることを彼はしっかりと感じ取っていた。

だが、枯れかけている草っ原の上にスークを横たえた時、ついに見てしまった。
できるだけ見るまいと心がけていたのに。嗚呼、最後の最後に。
魂を喰われた瞬間の、彼女の表情。


大きく見開かれた瞳と半開きになっている口を閉じさせ、ドルは立ち上がった。



「おい魔物ども!」



恐ろしいほどに澄んだ青空に声が響きわたる。



「てめえらにご馳走をやるよ。獣人を一匹だ。
ただしネズミの一匹でもドレット様の家の中に入れてみろ、その首もぎとってやる!」



ざわざわといくつもの茂みが動いた。
ご馳走を食べられる悦びにだったのか、それとも警戒してだったのか、彼にはわからない。
ただ言えるのは………



「……同じだな」



魂を喰って浮かれる自分の主も、人間の肉を食べられることに感情を動かす魔物も。
所詮は同類なのだと彼は思わずにはいられなかった。
そんなことを本人の前で言ってしまえば、自分もただではすまないのだろうが。
魔物たちの邪な気配を背に受けながら、ドルはその場を後にした。

























































「……なるほど、毒ですか」



黒々としたドレッドヘアーをかきあげて、ティルは溜め息を吐き出した。
目の前には五つのベッド―――そのうちの二つは急ごしらえのものだ―――に横たわるクラウドたちの姿。

あのあと、必死になっていたのが功を為したか、彼等は都合良く医務室へと着地できた。
ティルも最初は戸惑っていたものの、ウンディーネが事情を話すとすぐに落ち着いてくれた。
さすがはこの船の副船長といえる。
そしてそのウンディーネは、船長を呼びにと既に医務室から素早く走り去っていた。



「事情は飲み込めました。しかしこの毒……果たして一筋縄にいくでしょうか?」

「無理だろうな。粘着質のあいつによく似合う毒だ。
じわじわと体を蝕み、体力を絞り取っていく。並の薬草では焼け石に水にしかならない」

「そりゃまた随分と質の悪い……」



アルは眉をひそめ、ぽつりと呟いた。頬に冷汗まで流れている。



「参りましたね。何か特効薬でもあれば……黄泉さん、何か知りませんか?」

「……この毒は魔女の憎しみから生まれると伝えられている」



つぶやくような声で黄泉は話し始めた。



「そして港町ラエルを抜けた先のツハイン山脈に、体内の邪なものすべてを祓う薬草が生えている。
それを採ってきて煎じて飲ませれば、こいつらも助かるだろう」



その言葉にティルとアルは胸を撫で下ろした。とりあえずまだ望みはあるわけだ。
しかし、問題はクラウドたちの体力がどこまで持つか。特にクラウドは腹に傷を負っている。
回復魔法で止血はできたものの、少々血を流しすぎた。一番危険なのは彼である。
とその時、廊下を無遠慮な足音が駆け抜けた。かと思えば足音は口をつぐみ、勢い良く扉を押し開けた。



「船長、怪我人がいるんですから静かにしてください」



ティルの忠告さえもすり抜けて、船長は一直線に彼等のところへと向かった。
半分諦め気味の溜め息をティルは吐く。



「なんてこった……」



ぽつりと言葉が漏れる。
そこへ、ウンディーネがぱたぱたと追い付いてきた。



「船長さん、毒のことを話したとたん部屋を飛び出して……」



少々戸惑った表情でウンディーネは言う。無理もないだろう。



「ちくしょう、なんでこんなことに……おいティル、何かいい手はねえのか!?」



船長はティルの両肩を強く掴み、ぐらぐらと揺さぶった。
舌を噛まないように注意しながらティルは喋るが、うまく口が動かない。



「せ、せ、船長、落ち、落ち着いてく、ください!」

「落ち着いてられっか!こいつらが死ぬかもしんねえんだぞ!!
それにモモカは大切なひとり娘だ!まだ二十にもなってねえってのにこんな―――」



次の瞬間、船長は後ろによろめいていた。
ひ弱な力を振り絞って、ティルが彼の体を突き飛ばしたからだ。



「落ち着いてください。大人気ないですよ」

「そうはいっても―――」

「船長。あなた、今年でいくつになるんですか」

「………四十二だ。すまん」

「解毒については黄泉さんから特効薬の場所を教えていただきました。ツハイン山脈の頂上近くに生えているそうです」

「ツハインってぇと……」

「ええ、港町ラエルを抜けた先ですね」

「ちょ、ちょっと待て!ラエルったらここから三日はかかるぞ!
ツハイン山脈だってただの山じゃねえ。そんなに険しくはないが魔物がうようよしてやがる!
その特効薬を一日で見つけたとしても、こいつらの体力が持つかどうか……」

「だがこれしか方法はない。船長、お前もこいつらを助けたいのだろう?
ならばすぐにラエルへと向かえ。ぐずぐずしている時間はない」



少しの沈黙のあと、船長はそうだなと頷いた。



「おめえの言う通りだ。何事もやってみねえとわかんねえし、ここでぐずぐずしててもしょうがねえしな。
よし、そんじゃさっそく針路係に行き先を言ってこねえと。ここからまっすぐ南東だな?」

「そうですね。よろしくお願いします」

「おう、任せとけ」



やってきた時とはまるで対照的に、船長は落ち着いて去っていった。
ただ聞こえていた足音がだんだんと早くなり、終いにはまた無遠慮な足音になってはいたが。



「……あれ、ちょっと待ってください」

「?どうかしたのかい?」

「あなたたち、ここまで移動魔術を使って来たんですよね?それを使ってラエルまで行くことはできませんか?」

「悪いけど……ラエルってここから遠いだろ?まだまだ未熟でさ、そんなに遠いところまでは無理なんだ」

「どれくらいの距離までならいけるんですか?」

「そうだな……」



アルは顎に手をあて少し考えた。



「せいぜい12キロくらいまでかな。熟練された魔術師なら100キロは軽くいけるんだろうけど」

「……ふうむ。それでは無理ですね……」

「あの、ちょっと思いついたんだけど……登山する人だけ先にラエルに送るってこと、できませんか?」

「どういうことですか?」

「ええっと、つまり……とりあえず船でアルさんの射程内まで移動するんです。
そうしたら薬草を採りに行く人だけを先にラエルに送って……」

「なるほど、それなら有効に時間が使えますね。居残り組は登山組が行っているうちに追いつけばいいですし
もし薬草を採って山を下りた時点で船が入港していなくても、12キロ以内にいることは確実なのですから
また移動魔術を使って船まで戻ればいい。これは名案ですよ、ウンディーネさん」

「でも……」



ウンディーネは困ったように眉を寄せてアルを見た。
成り行きだったとはいえ、さすがにこれ以上巻き込むわけにはいかない。
それに彼の家には祖父がいる。独りぼっちにしてはおけない。
アルはぱちぱちと瞬きしていたが、やがて苦笑いした。彼女の懸念に気付いたようだった。



「別に気にすることじゃないよ。じいさんはしっかりしてるから。……留守にしてくることくらいは言っておこうかな」

「そうですよ。肉親の方は大事に致しませんと」

「じゃあぱぱっと行ってくるよ。すぐ戻るから。悪いな、時間がないのに」

「いえ、そもそも巻き込んだのは私たち…ですから」



それでもアルは、ごめんな、と申し訳なさそうに微笑んだ。
印を結び、文言を唱える。何かが破裂するような音がした後、アルの姿は光に包まれ消えた。



「黄泉さん」



ふいっと医務室を出ていこうとする黄泉をティルは静かに引き留めた。



「どこに行かれるので?」

「出ていっては悪いか」

「いえ」



穏やかに微笑む。黄泉は振り返りざまに睨みつけたが、効果はないと知ると
静かにドアノブから手を離し、諦めた表情で体ごと向き直った。



「何が言いたい?」

「いいえ、別に大したことでは。ただ…少し丸くなられたな、と」

「丸く?この私がか」



馬鹿なことを言うなと言いたげな表情だ。だがティルは頷いた。



「この船に入った時ばかりなら、"自分には関係ない"と言い捨てたでしょうに。
それが今は彼らを助けることに必死に見えます。……違いますか?」

「……ふん、馬鹿馬鹿しい」



黄泉は再び背を向け、ドアノブに手をかけた。ドアが開き、ひんやりとした外気が室内に入ってくる。
廊下に滑り込む直前、黄泉はぽつりと小さくつぶやいた。



「私は私のやりたいように動くだけだ」



それはドアが閉められる音にかき消されそうなほど小さかったけれど、二人の耳にはしっかりと届いていた。



「……まったく、素直じゃありませんね」

「アリヤさんのことはどうでもよく思ってそうですけど」

「それは言えます」



どちらかというと苦笑寄りの笑みを彼は浮かべてみせる。それにつられてウンディーネも苦笑した。
ウンディーネは内心驚いていた。船長を諭した時の黄泉の言葉。あれは仲間を助けたい一心から出た気がしたのだ。
他人に接することを嫌い、深く関わることを望まない人だと思っていた。そしてそれは勘違いだった。
おそらく、たぶん、きっと。そう思いたい。



「あの……私、まだここにいてもいいですか?」

「え?ええ、もちろん構いませんよ。あの人を待つんですね」



あの人、というのはアルのことだ。



「それもありますけど……私―――怖くて」



そこでティルは初めて知った。彼女の体が小さく震えているのを。今まで、ずっと?



「こんなことを言うのは、不謹慎だけど。いつ毒が回り切るかわからない。いつ私の前から消えてしまうかわからない。
私は身を挺することでしかみんなを守れません。だから今度は、そばに居たいんです」



言い終えて少し沈黙した後、ウンディーネはクラウドのベッドの傍らにある丸椅子に腰掛け、彼の手を握った。
それを見たティルは勘付いた。まさかという思いを胸に抱えながら口を開く。



「ウンディーネさん、あなた…記憶が?」



彼女はクラウドから視線を逸らさずに、ゆっくりと頷いた。どこか思い詰めた表情だった。
ぎゅ、と強く握られる手。恐怖は少しずつ、少しずつ心を浸食していく。

























































こりゃひどい。
弾ける光から解放されて、一番最初に抱いた感想がそれだった。
どす黒い血と紅茶を吸い込んだ絨毯は吐き気を催すような匂いを遠慮無く発し、
ティーカップの破片がこことぞとばかりに散らかっている。
地獄絵図――――といっては大袈裟だが、アルの辞書にはそれ以外にこれを形容できる言葉が見つからなかった。
きょろきょろと見渡したその先に目的のものを見つけると、彼は考えるより早く駆け出した。
目の前には、未だ沈痛に身を置いている祖父。アルは傍らに膝をついた。



「じいさん……おい、冗談じゃないよ!」



しっかりしてくれと体を揺すると、小さく呻き声をあげて祖父の意識が帰ってきた。アルはほっと息をつく。



「アル…か。怪我はないか?」

「それよりじいさん、あなたの方がキツいだろう!」

「わしはいい……なんともない。ちと腹を強くやられただけだからの」



気丈に微笑んでみせる祖父にアルは目の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。
そろそろ残り少なくなっている魔法力を振り絞り、祖父の腹に手をあてるとそれはやんわりと阻止された。



「こんなもの、少し安静にしていれば治るわい。内臓にも異常はないようじゃ。……ところで」



不敵な微笑みからがらりと変わり、真摯な視線がアルを射抜く。



「彼らは?」

「……ああ。お姫さんと真っ黒な人は無事だよ。だけど他の人たちはみんな毒針にやられて……」

「危険な状態か?」

「結構、ね。今日にでもここを発ってラエルの方に向かわなきゃいけない。
抜けた先のツハイン山脈によく効く薬草が生えてるらしいんだ。………じいさん、あの」

「言わんでもわかっとるわい。お前の移動魔術は便利じゃからの。必要とされるのは当然じゃ」

「じいさん……」



ひょうひょうと言ってのけた祖父にアルは今度は頬を緩ませた。自分は良い家族を持ったと思う。
もし父と母が生きていたらどんなことを言われるのだろう。

きっと母は心配そうにしながら煙草片手に祖父のように気丈に微笑んで、
父はどこぞの試験官みたいな厳しい表情で大木のごとくそこに佇んでいるに違いない。
その様子を思い浮かべてアルは苦笑しそうになったが、結局は虚しい空想だ。
二人とも、すでにこの世にはいないのだから。



「ひとりで大丈夫かい?部屋の片付けは手伝えそうにないよ」

「大丈夫じゃこれくらい。それより、みなさんの命が危ういんじゃろう?」

「ああ、そうだけど……」

「だったら早く行かんか。見殺しにするつもりか」

「わかった、わかったよ。だけどじいさん、無理はしないでくれよな。一週間以内には戻ってくると思うから」



心配するなと祖父が頷いたのを確認したアルは祖父を起き上がせらせてから、精神の集中を始めた。
背中に祖父の視線を感じる。彼のためにも、一刻も早く薬草を入手しなければ。
印を結び、口早く文言を唱える。今日三度目となる頭を引っ張られる感覚に目をつむり、アルは再び眩い光に包まれた。

弾ける光の向こうに消えた孫を見送って、彼は安堵とも不安ともつかない溜め息をついた。
魔力の強さを受け継げはしなかったけれど、あの優しさは父親のもの。
だからこそ心配なのだ。優しいことは決して悪いことではないけれど、それも度が過ぎると
"臆病"という名の重い枷へと姿を変え、心の自由を奪ってしまう。すべての決断を鈍らせてしまう。
杞憂かもしれない。年老いた男のくだらない、陳腐な考えなのかもしれない。
だけれど心配せずにはいられなかった。今となっては、アルは彼にとってたったひとりの肉親なのだから。

さて、と一息つく。感慨に浸る時間はもはやなく、文字通り目の前に散らかっている問題を片付けなければならない。
ティーカップの破片、カーペットの汚れ。それにこの不快な臭い。
このままではまともな生活を送るなどできやしない。やれやれと苦笑して、取り掛かろうと腰を屈めたその時に。


ぐぎ。


骨が歪んだような嫌な音。それに続いて腰に走る激痛。たらり、と冷や汗が額から滑り落ちた。

ギックリ腰よ、何もこんな最悪のタイミングでやってくることはなかろうに。
確かにもともと腰痛持ちではあるけれど、どうしてどうしてこんな時にやってくるのだ。


彼には己の情けなさに嘆息し、これからどうしようと途方に暮れることしかできず。
一方その頃、港では一隻の船が出港の準備を着々と進めていた。
























































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あとがき

ウンディーネの記憶が戻った17話でした。
と思えば更に面倒なことに。どうにも事件が絶えない船です。
……しかし、このあとがきはいらない気がしますね。書くことがないというか。
さて、クラウドたちの体力が持つうちに薬草は採れるんでしょうか。

ではまた次回に。