休むことなく走り続けたその足を、彼女はその大きな建物の前で止めた。
肩を上下させながら見上げてみればその高さは結構なもの。
階数で表せばおよそ五階ほどになるだろうか。図書館としては、結構大きい。
とりあえず息を落ち着かせていると、背後からの足音に気がついた。



「まったくもう。いきなり走り出すんじゃないわよ」



モモカだった。



「ご、ごめん。つい……」

「いいわよ別に。とりあえずはぐれずにすんだしね」



申し訳なさそうに謝るウンディーネに手を振って、モモカは目の前の建物を見上げた。
息が乱れていないのはさすがというべきか。「でっかいわねぇ」と嘆息をつくと、ガラス張りのドアに手をかけた。



「魔術書も置いてあるのよね?本という本、探し尽くすわよ」

「う、うん!」



ギイィ、とドアが開くと、本の香りが鼻についた。――――懐かしい。



(懐かしい?)



どうしたんだろう。本の香りが懐かしいなどと。ティムライト王国は本の香りで満たされていたとでもいうのか。
もちろんそんなことは記憶にないし、今となっては確かめる術はひとつたりとも残されていないのだが。
少々皮肉めいたその笑みは、一瞬で消えた。目の前の光景に目を奪われたからである。
僅かな隙間も許されることなく、ぎっしりと本棚に並ぶ本、本、本。まさに本の森。本づくしである。
天井を仰げば、上へと続く螺旋階段。そしてガラス越しに覗いている丸い青空が認められた。



「へぇー、図書館にしてはすごいじゃない。爺さんのセンスもなかなかなもんね」

「そうだね」



相づちを打ちつつも、心は別の場所に在った。おかしい。この既視感は、なんだ。
以前ここに来たことがあるというのか。記憶を失くす、ずっとずっと前に――――?

少し痛くなってきた首を戻して、ウンディーネは辺りを見回した。本当に本だらけだ。
これだけでも十分多いというのにこの図書館は未だ未完成だという。いったい館長は何千冊の本を集めたのだろう。
これだけ本に取り憑かれているのだ、きっと今も収集を続けているに違いない。
本棚の間を練り歩いてみると、本はジャンルごとに細かく分けられていることに気づいた。
これならば探し易そうではあるが、なんせ数が多すぎる。魔術書の本棚を見つけ出すのには時間がかかりそうだ。



「しかたないわね、二手に分かれましょ」

「見つけたら?」

「あたしたちの他には人いなさそうだから声張り上げちゃっていいわよ」

「わかった。じゃあ私はあっちから……」

「何をお探しかな?」



背後からの声に二人が振り返ってみると、老人がそこで微笑んでいた。
腰はまだまだしゃんと伸びているが手には杖が握られている。
言葉を失っている二人の様子を察して、老人はとっさに自分の正体を明らかにした。



「ああ、これは失礼。わしはここの館長で。
しかしお二人のようなお嬢さん方が図書館に来るとは珍しい。何か調べ物ですかの」

「あ、あの……私たち、この大陸に魔法書を探しに来たんです。
本当はルィサ王国に探しに行くつもりだったんですが……あんなことになってしまったから」

「なるほど、それでここに。しかし魔法といっても多種多様ですぞい。いったいどんな魔法を?」

「はい、大魔法を」



ぴくり、と老人の表情が揺れ動いた。



「……大魔法…ですか」

「何?まさかここにはないっていうんじゃないでしょうね」

「モ、モモカ!そんな口の利き方……」

「いえいえ、お気を遣ってくださらんでも構いませぬ。
心配せんでも大魔法の書は確かにここにありますぞい。さあ、こちらです。この老いぼれが案内しましょうぞ」



くるりと背を向けて、老人が歩き出す。
彼女たちは顔を見合わせたが、この広い図書館の中で人捜しはまっぴらなので慌てて彼の後を追い掛けた。
やはり本の収集に世界を駆け巡っているからだろうか。その足に衰えた様子はなく、若々しく建物内を進んでゆく。
そうして歩き続けた後、老人の足がぴたりと立ち止まった。どうやら終着点らしい。



「ここですか?」

「ですな。この中にいくつかは大魔法に関して記された本があるはずじゃて」

「って、なにそれ。普通の魔法書と大魔法の本は分類してないワケ?」

「はははは、なんせ魔法はからっきしですからの。
普通の魔術書はまだ理解できても、大魔法となるとわしの理解の範疇を超えてしまいまして。
だから大魔法の書はあまり集めておらんのです。せいぜい数は十冊ほどですかの」

「それじゃ魔法書は?」

「さあ、数えたことはありませんなあ。まあ軽く百は超えてますぞい」

「……爺さん、どの本がどこにあるか覚えてる?」

「いくらわしでもそこまでは。来館者がわざわざ順番をしっちゃかめっちゃかにしてくれますからのう」



思わずモモカは頭を抱えた。
百以上の魔法書の中から、十冊ほどしかない大魔法の書を探すだと?
しかも具体的な場所はわからない、と来たもんだ。狂気の沙汰としか思えない。



「モ、モモカ……」

「わかってる……腹、括るわよ」

「ふぉっふぉ、まあゆっくり探しなされ」



踵を返して、どこへともなく館長は歩き出した。
が、何を思ったか歩を止め、くるりと彼女たちを振り返る。



「ちなみに閉館は六時ですぞ」



それだけ言ってしまうと館長は軽快な足音を響かせながら行ってしまった。
遠ざかってゆくその背中に、モモカは思いっきり叫んだ。



「余計なお世話よ!!」


























































カミノウタ



第13話

−港町の図書館−





























































モモカは頭を抱えていた。

あつらえたように設置されている大きな机と椅子。図書館にはつきものである。
そこに腰掛けて、片っ端から本を調べていたのだが……なんせ魔法の知識などこれっぽっちもない状態である。
もともと読書などしないことも災いして、魔法書の内容は彼女の脳みその許容量をとっくに超えていた。
ウンディーネの方を見てみれば、一心不乱に本を調べている。よくまあ飽きもせず集中していられるものだ。
忘れているとはいっても、彼女も自分と同じように魔法の知識などないはずなのに。
いや―――違う。モモカは思い直した。"忘れている"のではない。"思い出せない"だけなのだ。
クラウドは言っていた。禁呪文によって失われた記憶は簡単には戻らない、と。本当にそうなのだろうか?
戻らないのではなく、戻るのに極端に時間がかかるだけなのではないのか。
ばらばらになってしまった記憶のピースと場所をひとつずつ探しだし、はめるのに時間がかかっているだけなのでは。
現に、目の前のウンディーネは魔法書を読むにつれて知識を取り戻しつつあるように見える。
最近では料理の腕もめきめき上がっている。否、上がっているのではなく戻ってきているのだが。



「モモカ?どうかした?」



不意にウンディーネが振り返った。
先ほどからのモモカの視線が気になっていたのだろう。



「あ、ううん。なんでもないわ。ただまあ、ちょっと途方もない作業よねーって……」

「休んでてもいいよ。私って、なんだか本を読むの好きだったみたい。
それにコレ読んでると……よくわからないけど、何か思い出せそうな気がするから」

「何かって?」

「うーん……魔法の使い方、とかかな。なんとなくわかってきた気がするの」



そう言って彼女は少し嬉しそうに微笑んだ。
ほら、やっぱり思った通りだ。"忘れている"のではない、"思い出せない"だけ。
このまま順調にいけば記憶もすべて戻るのではないか。大魔法を使って無理矢理記憶を取り戻すよりも、
少しずつ刺激を加えて少しずつ取り戻していった方が案外体には良いような気がする。
焦る必要はないはずだ。モモカはそう思う。しかし――――



(ホント、途方もない作業よね)



思わずあくびがでそうになる。この文字の羅列を見てみるだけでも眠くなりそうだ。
いや、待て。本当に眠くなってきた。少しまぶたが重い。
勢いよく首を左右に振り、眠気を吹き飛ばす。まったく、こんなことなら日頃から本を読んでおくのだった。


一方、ウンディーネは今までにないほど集中していた。モモカに料理を教えてもらう時よりも、海の魔物と戦う時よりも。
しかし、彼女は少し集中しすぎていた。だから気づくことができなかったことがある。
時間の経過や――――背後の気配に。



「ウンディーネ」



はっとして、声が発せられた方へと顔を向けた。
銀色の髪、細い目の中に広がる深い海の色。まわりに漂うなんともいえぬ雰囲気を持つ少年がそこにいた。



「……アメット兄様」



ぽつりとウンディーネがつぶやくと、アメットは優しさをたたえてにっこりと微笑んだ。



「また読書に没頭していたんだね。今度は何の本を読んでいたんだい?」



乾いた足音を響かせながらアメットはゆっくりとこちらに歩み寄り、彼女の手の中にある本をのぞき込んだ。
ああ、と懐かしそうな声があがり、アメットはウンディーネから優しく本を取り上げた。



「これは僕も手に取ったことがある。
そうか、ウンディーネはもうこんな本まで理解できる年齢になったんだね」



そう言って、嬉しそうに彼は微笑んだ。



時計が奏でるメロディに彼女は目を瞬かせた。
ふと見上げれば、空は赤く染まっていた。もう夕暮れだ。
と、横を見てみるとモモカが机に突っ伏している。……慣れない読書で疲れてしまったか。



(……今の、って)



間違いない。今のは記憶。それも何年も前のものだ。



(どうしてこんな……)



読書に没頭していたから、か?



……ウンディーネは左右に首を振った。
考えていてもしかたがない。探すのはまた明日にしよう。
そう思い、モモカを揺り起こそうとした時だった。


気配。そして、視線。
微かなものだが、それは確かに彼女の感覚を刺激した。
モモカは寝ている。ならばあの館長か……いや、違う。館長ならば閉館だと伝えに来るはずだ。
自分たちをじっと見つめているだけに留まる理由はどこにもないだろう。
棍を手に取って、ウンディーネは静かに立ち上がった。向かう先は――――あの本棚。
少しずつ高鳴ってゆく心臓を意識しながら、ゆっくりと歩を進める。目的の場所にたどり着くと、深呼吸をひとつ。
そうして後ろ側に素早く回り込み、そこにいるだろう相手に勢い良く得物を突き付けた!



「ストップ、ストーップ!やだなあ、そんな物騒なモン人に向けないでよ」



そこにいたのはひとりの男。
金の長い髪を後ろでひとくくりにしており、耳には青い宝石のピアスが光っている。
なんというか、いかにも軽そうな男である。



「ずっとここにいましたね。何か御用でも?」

「あら、気づいてた?君たちかなりの上玉だからね。ここ来る前にも声かけられたでしょ」

「真面目に答えなさい!」



とぼけてみせる男に、ウンディーネは無意識のうちに威厳を発していた。
わけもわからぬまま男は気圧された。それが王族特有のものとは気づかずに。



「な、何を調べてるのか気になっただけさ。ずいぶん必死になってたみたいだったし……」

「……そう」



少々納得できないものの、ウンディーネは棍を下ろす。
すると安心したような溜め息が男の口から漏れた。



「まあ最近物騒だからね、武器を持ち歩くのは正しいよ。
だけど君みたいな可愛い女の子は、やっぱりおしとやかにしてた方が……
OKOK、オレが悪かった。悪かったからその棍を下ろしてくれよ」

「あなた、よっぽどの寝不足なんですね」



お望みなら眠らせてあげますよ、と苦虫を噛み潰したような顔をしつつ、彼女は棍を下ろした。



「まったく、冗談が通じないなぁ君は。……ところで、いったい何を探していたの?」

「関係ないでしょう」

「うわぁ冷たあい。なんなら一緒に探してあげてもいいんだよ?」

「私たちだけで探せますから。それに閉館時間も近いし」

「あ、ここにいるってことは魔法関係か。君、魔法使えるの?」

「人の話し聞けないんですね?」

「おかげさまでね。何を探してるの?」



思わず彼女は溜め息を吐き出した。
……アリヤにつきまとわれる黄泉の気持ちが、ほんの少しだけわかった気がする。



「……大魔法の書です」

「へえ、そうなんだ!でも、特定された木を森の中から探すなんて気が遠くなるね。
しかも見た目だけではよくわからないから、いちいち調べなきゃいけないんじゃない?
大変だねぇ。そこまでして大魔法を使いたいの?諦めた方がいいと思うけど」

「人を馬鹿にしているんですか」

「親切で言ってるつもりだよ。見つかるまでにいったいどれくらい時間がかかると思う?
綺麗な顔してるんだからさ、できることいっぱいあるよ?男のひとりやふたり余裕で囲えちゃうって」

「いい加減にして」



吐き気がしてきた。この男、どこまで勝手なのか。



「やだなあ、怒らなくたっていいじゃん。僕は正直な考えを言ってるだけだよ。
だいたいさあ、こんなことしたって無駄だよ」

「無駄?何が無駄だっていうの?」

「普通に考えてごらんよ、膨大な量からちょっとしかない本を探すなんて無謀すぎない?
見つかるかどうかもわからない本を探すなんて時間の無駄にしかならないよ」

「……反吐がでそう」

「え?」

「消えて。これ以上あなたの顔を見たくない。声だって聞きたくない」

「な、なんだよ。怒らないでってば」



彼女は男の顔に手のひらを突き付けた。



「私はエルフ族の生まれ。魔力だって人間より高い。
ひとたびここで魔力を解放すれば、どうなるでしょうね?」



恐怖に凍りつく男を睨め付けて、ウンディーネは吐き捨てた。



「私の前から消えて頂戴。二度と姿を見せないで」

「……な、なんなんだよ君は」



男はようやく声を絞り出した。声も、その体さえもがたがたと震えている。



「そこまで…怒ること、ないじゃないか……」



頭に響くような甲高い音がした後、小さな爆発音が響いた。



「……もう一度、言うわ」



しゅうしゅうと煙が上がる。彼女の発した火球は男の足下の床を見事に破壊していた。



「消えて。あなたを見てると反吐がでそうなのよ」



弾かれたように男は駆け出し、それと同時に本の雨が降った。
なりふり構わず手足をばたつかせたせいか。
男の姿が見えなくなると、ウンディーネは重く重く溜め息を吐いた。



「……まったく」



世の中には腐った人間もいたものだ。
こんなに激しい怒りを覚えたのは初めてかもしれない。
なにしろ過去が真っ白だから、事実上初めてとは言い切れないのだが。

散乱してしまった本を片づけようと、ウンディーネは床に膝をつく。
同時に自分が破壊した床にも目がいく。館長に謝罪し、弁償しなければならないなと思った。
一冊の本を手に取り、埃を軽く払う。ここは清掃が行き届いているからそんな必要はないのだが、一応。
しかしその本の題名を見て、ウンディーネは我が目を疑った。



「"大魔法全集"……!?」



もしかしてこれは。まさかと思い、他に散乱している本を確かめてみた。



「"一ヶ月で学ぶ大魔法"……"大魔法で失敗しないためのポイント100"……」



間違いない。館長の言っていた、行方不明の大魔法の書だ。
しかし――――



「"明日からあなたも大魔法使い!" 、"すぐわかる!すぐできる!大魔法入門"……?」



なんというか……いささか普通すぎる。
もう少し荘厳な感じの題名を期待していたのだが……。



「……"漫画で覚える大魔法入門 『大魔法研究部』"……」



ここまで来るとありがたみがなくなってくる。
ウンディーネは呆れたように首を横に振り、題名を見ないように本を元通りに戻した。
数えてみたが、全部で十冊あった。どうやら目立たないところに放置されていたために今まで発見されなかったようだ。
しかし、どれを借りようか。目的の本を見つけたとはいえどれを選べばいいのか迷ってしまう。



(題名もコレだしなぁ……いや、でも中身が肝心だし……)



とりあえず入門書を一冊と、大魔法全集を借りるのが妥当なところだろう。
しかし入門書だけでも三冊以上はある。いったいどれを選べばいいものか……。



「どうですか、見つかりましたかな?」



と、館長がそこへ現れた。
おそらくそろそろ閉館だと知らせに来たのだろう。



「あ、はい。どうやら目立たないところに入れられて、ずっとここにあったみたいで……」

「おや、そんなところにあったのか。道理で見つからないわけですの」



にっこりと館長は微笑む。ウンディーネも微笑み返した。
それから少しばつが悪そうに、彼女はもじもじと破壊された床を指で示した。



「あの……ちょっといろいろあって、壊してしまって……」

「おやこれは見事な。この痕跡を見るにどうやら魔法のようですなあ」

「ごめんなさい、必ず弁償しますから……」

「いや、それはお構いなく」

「え、でも……」

「また近いうちに増築しますからのう。その時ついでにいろいろなところを修理してもらいますでな」

「本当にごめんなさい!」



ぺこり、とウンディーネは頭を下げた。
すると別にいいと言っておるのに、と館長は苦笑いを浮かべた。



「それで、どれを借りるかは決まりましたかの?」

「この"大魔法全集"と……何か一冊、入門書を借りたいと思ってるんですけど」

「ふうむ」



館長は並ぶ本に視線を彷徨わせ、やがて一冊の本を取り出した。



「これがいいかもしれんの。わしでもほんの少しじゃが仕組みが理解できましたぞい」



"いつでも始められる大魔法"といういかにもな題名を持った本を、館長は差し出した。
そんなに厚さはないのに、なかなか重い。先ほどの"大魔法全集"と合わせれば、結構な重さになることだろう。
しかし"魔法はからっきし"である館長が少しだけでも理解できたという本だ。きっと力になってくれるに違いない。



「じゃあ…この二冊、お願いします」

「わかりました。ちょいとお預かりいたしますぞ」



ウンディーネから本を受け取って、館長は奥へと消えていった。貸出手続きをしに行ったのだろう。
もちろん返却期限は存在する。長くても一週間といったところか。その期間内に使いこなせるようになれるかどうか。
その問題は期限を延長してもらうことで解決されるものの、まだそれは残っている。
"場所"だ。大魔法なるものを下手に放ってしまっては大変なことになる。使う魔法にもよるのだろうが……。

と、ふと未だ机に突っ伏しているモモカの姿が目に入った。
目的は果たしたし、そろそろ船に戻るので起こさなければなるまい。
そう思って、彼女の肩に手をかけた。

























































モモカは夢を見ていた。
無論それを自覚しているはずもなく、彼女にとって今のそれは記憶の再現でしかない。
どすどすと荒っぽい足音をたてて歩き、机の引き出しを開けて水鏡を取り出す。
そしてポケットから出した小瓶のふたを開けると、静かにそれを注いだ。
水の波紋が収まり、天幕の向こうに居る影が現れると、モモカは身を乗り出した。



「ドレット!これはどういうことよ!」

「随分な挨拶だな」

「挨拶なんてそんなもんはどうでもいいわ!メジストにこの船に襲わせたでしょ!」

「ああ、そのことか」



今思い出したように声をあげるところが腹立たしい。奥歯を噛み締めて、モモカはドレットを睨め付けた。



「何のためにこの船を沈めるつもり?黄泉を始末するつもりなら、その必要はないはずよ」

「私の存在に気づいて、災いをもたらすとも限らん。
それと、そちらの船に黄泉以外にも強い戦力が在るらしいとわかったのでな」

「そんなことで……!!」

「メジストから報告を受けて知ったのだが」



前置きもなくドレットは話し始める。



「乗っているらしいな。ティムライト王国の、ただひとりの生き残りが」

「……だったらなんだっていうのよ」

「私はメジストに命令を下した。"ティムライト王国の人間はひとり残らず消せ"、とな。
これが何を意味しているか……わかるだろう?メジストは実に私に忠実だ」

「ふざけないで!!正体がどうであろうと、あたしの大切な仲間なのよ!」



とうとうモモカは憤慨した。
握る拳に力が込められ、真紅の瞳がメラメラと燃え上がる。



「やらせない。あの子を殺させたりなんか、絶対に」



――――許さない。



「貴様がいくら凄んだところで私は命令を取り下げたりはしない。ヘビス・ウォーレスは特例だった。
まあ少しの間共に過ごしたことで情が芽生えたのだろう。そんな情は捨て置け。無駄だ」

「だけど!……あの子がしたこと、それも報告がいってるはずよ」

「目覚めたか?」

「……まあね。だけど記憶を失くしてる」

「だろうな。アレを使って無事だった者はひとりとしていない。どうするつもりだ?」



いたたまれなくなって、モモカは目を逸らした。



「今、お父さんの旧友のところに行ってるわ。記憶を取り戻す方法を探してる」

「そうか」



いかにも楽しそうにドレットは口元を歪ませる。対して、モモカが歪ませるは表情。



「大魔法だな」

「え?」

「大魔法だ。禁呪文以外に脳に大きなショックを与えられる方法はこれしかない。
そしてそれを習得できる、大魔法の書が多く存在しているのはルィサ王国。
おそらくお前の大切な仲間とやらも、この話しを持って帰ってくるだろう。だが……」



この瞬間を待っていた。
彼女が一番ショックを受けるであろう、この言葉を発する瞬間を。



「ルィサ王国は、そう遠くないうちに帝国の手に堕ちる」

「なっ……」

「あそこは強靱な魔術師が数多くいる。早めに抑えておかねば後で厄介なことになるのでな。
王女の身を案じ、凄惨な光景を見せたくなければ王国には向かわないことだ。
ただ、どうやってそれをハザード・ラキャットに伝え、承諾させるかは私は知らん。
思いのほか記憶が一部戻るかもしれんぞ。再び王女を追い詰め、苦しませるだけだがな!」



ドレットの高らかな笑い声が響き渡る。
モモカは耳を塞いだ。笑い声がくぐもることはなかった。
強く強く、どんなに強く塞いでも。耳の中に、頭の中に、体中に声が侵入してくる。
いまやモモカは体からドレットの声を排除することしか考えていなかった。


否定を、不服を、嫌悪を彼女は叫んだ。
あの悪魔の嘲笑をかき消すため、声の限り。叫んで叫んで叫んで叫んで、叫び続けた。


それでも声は。
彼女の中へと侵入することをやめなかった。



「……モモカ」



………?



「モモカ」



何よ……



「モモカ!」



やめなさいよ――――
あんたなんかに本名で呼ばれるなんて、こっちはまっぴらごめんだわ



「ねえ、モモカってば!!」



ぐらぐらと体が揺さぶられる感覚に意識をこじ開けられる。
頑なに閉じていた目をゆっくりと開くと、そこにあったのは綺麗な蒼をした双眸。



「……あ……」

「やっと起きた!何度呼んでも起きないからどうしたのかと思ったよ」

「ごめ……」

「……汗びっしょりだよ。大丈夫?」

「大丈夫よ。やな夢……見ただけだから」



確かにウンディーネが言う通り、モモカの体は汗びっしょりになっていた。
まだ頭にかかっている霞を左右に振ることで払うと、モモカはふっと溜め息をついた。



「そういえば、なにか寝言言ってたよ」

「え?」

「なんか……『そんなのうまくいくわけない』とか、『くだらないのよ』とかなんとか。
いったい何のことを指して言ってるのか、全然わからなかったけど」

「……そう」



それでいい。
まだ何も知らなくていい、わからなくていい。少なくとも、今は。



「途中で寝ちゃってごめん。本、見つかったの?」

「今、館長さんに貸し出し手続きしてもらってる。そろそろ戻ってくるんじゃないかな」

「よくひとりで見つけられたわね……ご苦労サマ」



モモカは顔だけで笑い、しかし心では恐怖していた。
夢の中にまで侵入してきたあの忌まわしい存在は、いったいどこまで事を進めるつもりなのか。
得体の知れない化け物。何を考えているのか、何がねらいなのかもわからない。

……ぞっとした。
自分は今、その化け物の支配下に置かれている。命を握られているのだ。



「おや、ご友人もお起きになられました」



声に振り返ると、館長が二冊の本を持ってそこに立っていた。



「手続きのために、あなたの名前をお伺いしてもよろしいですかの?それですべての手続きが済みますからに」



ふたりは顔を見合わせた。
館長はウンディーネの名前を聞きたいと言っている。しかし軽々とこの名を口にしていいものか。
だからといって偽名を名乗るのも気がひける。しかたないわね、とモモカが進み出た。



「あたしの名前でもいい?」

「構いませんぞ」

「ありがと。あたしの名前はモモカ・ラキャットよ」

「ふむ、ラキャットさんですな。承知致しました」



どうぞ、と本を差し出される。モモカはそれを受け取ったが、予想外の重さに膝が落ち込んだ。



「け、結構重いのね。びっくりした」

「ふぉっふぉ。本をなめてはいけませんぞ」



実に楽しそうに館長は笑ってみせる。
ドレットのとは違うそれは、モモカを和ませるには十分だった。



「あの、いつまでに返せばいいですか?」

「別にいつでも構いませんですぞ」

「え?」



ウンディーネは目をぱちくりさせた。
返却期限は無期限などと、そんな馬鹿な話しがあるものか。



「勘違いなされるな。別に無期限というわけではありませんぞ。
ただ、その大魔法の書だけは別ですじゃ。なんせそれは修得に時間がかかる。
大魔法を修得し、使いこなせるようになるまでは返却されずとも結構。
ですから返却期限は無期限とはいいませぬが……まあほとんど無期限なのです」

「そうなんですか……じゃあ、できるだけ早く返しに来ますから」

「いえいえ、ゆっくりなさっていてよろしいですぞい」

「ありがたいわね。そう言うならそうしてもらおうかしら。…っと、そろそろ行かなきゃいけないわね」



ウンディーネを促して去ろうとすると、館長がそれを引き留めた。
何かと思い向き直ると、手渡されたのは一枚の小さな紙。そして紙に書かれていたのは、どことも知れぬ住所。



「これは……?」

「本を読めばわかることじゃが、大魔法を使うにはある魔法陣が必要になりますぞい。
複雑な陣のうえ、一文字一文字念を込めて最後には大きな魔力を込めなければなりませぬ。
それもある程度整えられた環境の部屋に描かないと発動しない、厄介なもの」

「何よそれ!随分手間がかかるじゃない!」

「わしの家にそれがある」

「「……は?」」



二人は言葉を失った。
魔法の類はからっきしであるはずの館長の家に、何故そんなものがあるのか。



「わしはからっきしじゃが孫は魔術師をやっとります。あまり才能には恵まれておりませぬが。
実力はああでも大魔法をちょびっと扱えます。まあ陣を組んだのはわしの娘婿ですがのう。
今渡した紙に書いてあるのはわしの家の住所ですじゃ。修得し、扱えるようになったら家に来てくだされ」

「あ……はい、ありがとうございます」



あっけにとられながらも礼を述べ、二人は今度こそ館長に別れを告げた。
来た時と同じようにガラス張りのドアをくぐり、外に出る。夕日に照らされて影が長く伸びた。



「ああ、もう太陽沈みかけてるじゃない」



モモカが空を仰いで言った。
確かに太陽は町並み越しにオレンジ色の光を放っている。



「モモカ、一冊持つよ」

「ん、ありがと」



ウンディーネには気づかれないように、モモカはほっと胸を撫で下ろした。
荷物がひとつ減ったからではない。こうして平和に大魔法の書を手に入れられたことに安堵したからだ。
館長の好意から場所を提供してもらえたし、今は事はうまく進んでいるようだ。

心から、本当に良かったと思う。
戦争の飛び火がふりかからなかったこと、ウンディーネに凄惨な光景を見せずにすんだこと。
己が手を下すまでもなく、ルィサ王国にたどりつくことが不可能になったことも。
なんせ、帝国がルィサ王国に攻め込むことを自分が知っていてはおかしかったのだ。
クラウドやアリヤ、父はメジストのことでドレットがただの暗殺組織のボスではないことを知ってしまった。
ドレットが帝国に荷担していることなど既に予測がついているだろう。
もし嵐が起こらず、また船がうまく難破してくれなかったらモモカは行動を起こしていた。
それによって、自分とドレットとの関係を感づかれるかもしれなかったのを予測することは容易だ。
ドレットのスパイまがいのことをしているなど知られたくはない。それだけは嫌なのだ。

それ故に――――嫌だった、悔しかった。
あのような忌まわしい者に、情報をやってしまうのは。


そして憎かった。
ドレットに否応なく従わされ、逆らうことさえできない自分が。
とてつもなく、憎かった。



「ねえ、モモカ」

「ん?」



ウンディーネの重い声に、モモカは振り返った。
見れば、その表情は少々深刻そうだった。



「どうしてもわからないことがあるの」

「あの爺さんの年齢とか?確かに見た目だけじゃ計り知れないわよねえ」

「違うの。……真面目に聞いて」



彼女の顔に翳りが認められて、モモカはふざけるのをやめた。



「どうしてかな……どうしてみんな、何も教えてくれないの?」

「何を?」

「私の、記憶のこと……」

「何言ってんの。ティルが言ってたでしょ?覚えてないの?」


"私たちが教えることで、ああそうか、と納得して記憶が戻るとは思えません。
自分で思い出すことができなければ……あなたの記憶は戻りませんよ。"


――――覚えていないわけがなかった。
あの時の言葉は彼女の胸に深々と刺さったのだから。



「……それはないけど」

「だったらいいじゃない。答えはハナッから出てるわ。
あいつの言い方はムカついたけど正論だしね。自分で少しずつ思い出してくしかないのよ」



行くわよ、とモモカは長い影をひきずりながら歩き出した。
しかしウンディーネはうつむいたまま、その場を動こうとしない。



「だけどモモカは、少しだけ教えてくれた!
私がティムライト王国の王女で、その国は帝国に滅ぼされて無くなってしまったこと」

「………」

「……私なりに考えてみたの」



ぴた、とモモカの足が止まった。



「私が禁呪文を使った原因は、私を追い詰めた出来事っていうのは
ティムライトがぼろぼろになってるひどい光景を見て……自暴自棄になったからじゃないか、って」

「……それもあるんじゃない?」

「他にも何かあるの?」

「さあね」

「モモカ!」



はぐらかそうとするモモカを引き留めて、ウンディーネは彼女の肩を掴んだ。
このままうやむやにはしたくない。なんとしてでも、知りたい。



「私もティルの言うことは正しいと思う。だけど…!」

「もう少しの辛抱よ。目的の物は見つけたから、あとはあんたの努力次第。記憶が戻れば全部わかるんじゃない?」

「………」

「他人から聞いて知るより、自分でわかった方が絶対いいわ。ね?」

「……うん」

「よし、そんじゃ戻るわよ。暗い道を歩くのも気がひけるでしょ」

「ごめん…ね」

「いいわよ別に。あんたの気持ちもわかるしね」



うなだれる彼女の肩をぽんぽんと優しく叩いてやった。
目が覚めた時、すべての記憶を失くしていれば誰だって不安になる。
彼女がこうなってしまうのもしかたがないことなのだろう。

空を見上げればすぐそこに夜が迫っていた。藍色の空にいくつか星が光っている。
モモカは『夜』という単語から、すっかり忘れていた出来事を思い出した。



「ねえ、この前のことなんだけど」

「この前?」

「そ。リィドとかいうガキが船に来た夜のことよ」

「ああ、うん……モモカはどう思う?」

「そうねえ……根拠がなさすぎるのよね。あいつの言うこと。
だいたい戦争を止められるのがなんであたしたちなワケ?いくらなんでも都合よすぎるじゃない。
ああ言い切れる自信がどこから来るのかがまったくわかんない。証拠を見せてみなさいっての」

「う、うん……そうだよね。証拠も根拠もないし……」

「そうよ!そんな伝説の勇者みたいなこと、いきなり言われたって困るのよね」

「あははは」



モモカの言うことは正しい。ウンディーネにはそう思える。
けれどなんだろう。あの子どもからは、何か"妙なモノ"が感じ取れたのだ。
まるでこの世のものではないような――――そんな"妙なモノ"が。それが何なのかはまったくわからないのだが。



「ところでさ」

「ん?」

「あの時、クラウドと何してたワケ?」

「え、何してたって……」

「抱きしめられてたでしょ、あんた」



沈黙。



「……っみ、見てたの!?」

「当然でしょ。あたし、あんたらが来る前からあそこにいたんだから」



ウンディーネは思わず両手で顔を覆った。
瞬く間に体温が上昇していく。ああ、せっかく忘れていたというのに。



「どうして今頃そんなこと!あんなの、思い出すだけで恥ずかしいのに……」

「でも嬉しかったでしょ」

「そんなわけない!いきなりでびっくりしたし、どうしてあんなことされたかもわからないんだから!」

「へーえ、記憶喪失になる前ならそんな言葉聞けなかったわね」

「……どういうこと?」



小首を傾げてみせるウンディーネに、モモカは胸中で溜め息を吐いた。
"どうしてあんなことされたかもわからない"……か。



「あんた、どうして抱きしめられたのか本当にわかんないの?」

「う、うん」

「あいつから何も感じなかった?」

「別に……なんか変だな、とは思ったけど」



"なんか変"とまできたか。まったく世話の焼ける。
ここまで恋愛沙汰に鈍感なのも王宮育ちが関係しているのだろうか。



「いーい?ハッキリ言うわよ。
あんたは、クラウドのこと好きだったの。冗談でもなく勘違いでもないわ。間違いなくあいつのこと好きになってた」

「えっ……好き、って」

「恋愛感情を抱いてたってことよ。お願いだから、いくらなんでもそれはわかって頂戴」



モモカの言葉にウンディーネはぱちぱちと目を瞬いた。と思えば、その顔を一瞬にして朱に染め上げてしまった。
こう言ってもわからなかったらどうしようかと思ったが、どうやらそれは杞憂に終わったようだ。



「わっ、私が!?クラウドのこと!?」

「やっとわかってくれたみたいね。だいたいあんた鈍すぎなのよ……どういう神経してるの?
ちなみにクラウドも絶対にあんたのこと好きよ。これも間違いないわ」

「うそ!そんなわけないよ!」

「どうしてよ?抱きしめるんだったらもう確実じゃない。
あいつって奥手だと思ってたけど、実は考えるより手が出ちゃうタイプなのかしら。
冷静そうに見えて危ない奴ね。気をつけなさいよ、油断したら襲われちゃうかも」

「モモカ!変なこと言わないでよ!」

「冗談よ冗談。そんな本気にしなくてもいいじゃない」



けらけらとモモカは笑ってみせる。
そこでからかわれていたのだとようやく気がついて、ウンディーネは肩の力を抜いた。



「でも、あんたがクラウドの好きっぽかったのはほんとよ。
今のあんたと同じで否定してたけどさ、絶対あれは照れ隠しだったわね」

「そ、そうなの?」

「そうよ」



モモカが力強くうなずくのを見て、ウンディーネは少し戸惑った。
記憶を失くす前の自分。王女として幸せに暮らしていた自分。故郷を失くして自暴自棄になっていた自分。
それは今の自分と同じ自分なのだろうか。記憶を取り戻した時、今の自分は消えてしまうのではないか。
意識の根底から記憶を失くす前の自分が戻ってきて、今の自分を押しのけて体を支配してしまうのでは。
そんな儚い恐怖が、少しだけ脳裏をよぎる。しかしそれを口に出すことを彼女はしなかった。
だって言ってしまえば。笑い飛ばされるか、「あんたはあんたよ」と丸め込まれるだけだろうから。



先ほどよりも星の数が増えている夜空を見上げて、彼女は白い息を吐いた。
日が暮れてきたせいか少し冷えてきたようだ。海の近くというのもあるかもしれないが。
防寒着を身にまとっているとはいえ、やはり寒い。



「……モモカ、あのね」



ふと、思い出したことがある。
無我夢中だったものだからすっかり忘れていた。



「モモカはあのとき寝てたから知らないんだけど……」



くすくすと笑いながら彼女は言う。



「私ね、手から火を出してナンパしてきた人を撃退したんだよ」



モモカはしばらく目をぱちくりさせていたけれど、やがてとびきりの笑顔を見せた。
そしてよくやったと言いたげに、ウンディーネの頭を軽く叩いてやった。
























































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あとがき

女の友情の13話でした。……ちょっと違うか?
魔法書を読んだことでウンディーネは魔法を思い出したようですね。
さて、どうしてナンパ男が図書館にいたのかですが……。
町中で二人の姿を見つけて、ナンパしようと後をつけてったわけです。ストーカーですね。

ではまた次回に。