暖かい。
それが今自分の頭に触れている手から感じたモノに対する正直な感想だった。
人の手とはこんなに暖かなものだったか。久しく忘れていたモノを再び取り戻した気がして、思わず目頭が熱くなった。
「あの……」
「大丈夫、ちょっと腫れてる程度だからすぐに治ると思う」
いや、そうじゃなくて。言いかけたがネルーは黙っていた。
少し経った後、魔法による治療が終わったようで、暖かさはふわりと消えてしまった。
それを惜しく思いながらも、背後にいる人物をおそるおそる振り返ってみる。
「やーっぱウンディーネは頼りになるな!ありがとな、助かったぜ」
「いえ、今の私にはこれくらいしかできませんから」
そう言ってアリヤに微笑んでみせる彼女はウンディーネといった。
陽の光にきらりと煌めく銀髪は今までに出会ったことのない綺麗な色だったし、
その瞳はつきぬけるような青い空と透き通る海の美しさをそのまま宝石の中に閉じ込めたみたいだった。
そのまま見惚れていると、視線に気付いたのか、ふとウンディーネが振り向いた。ばちりと目が合ってしまう。
空と海がまぜこぜになった青にまっすぐ見つめられて、ネルーは身体が強張るのを感じた。
ただでさえ人間に対する警戒心が完全に解けてはいないというのに。
「あ、あのっ……ぁ、ありがとう」
しどろもどろになりながらそれだけをようやく言うと、すぐに逃げるようにして俯いた。
すぐ上で「どういたしまして」と返す声がする。にっこりと微笑んでいることが声音からわかって、
ネルーはますます顔を上げるわけにはいかなくなった。綺麗に細められたあの宝石を見つめることなどできるわけがない。
痛みがひいて軽くなった足を誤魔化すように動かして、その場を適当にやり過ごすことしか彼にはできなかった。
砂浜に着いた時には、船員たちはみな起きていた。船乗りの朝は早い。
森から姿を現した二人を見つけると彼らは駆け寄ってきては、どこ行ってたんだよ、探したんだぞと次々と口にした。
船員たちの追及を「後でな」と押し退けて、アリヤは向こうでこちらの様子を見守っていた少女を呼んだ。
それは確かに、数日前にネルーが吹き飛ばした少女であった。
「ウンディーネ。悪ぃんだけど、こいつの怪我治してやってくんねえか?」
「え?」
アリヤの背から降ろされたネルーに少女―――ウンディーネは目を丸くした。
自分を吹き飛ばした奴の手当てなど断られるに決まっている。彼はぷいと目をそらして俯いた。
けれど予想とは反して、彼女は二つ返事で承諾してしまった。
驚いて顔を上げると目の前には優しい微笑みがあって、居たたまれなくなったネルーはまたもや俯いたのだった。
わからない。なぜ助けてくれたのか、どうしてこんなに優しくしてくれるのか。
自分は妙な力を持っていて、あまつさえその力で危害を加えたというのに。
科学者たちの仲間ではないかとも考えたが、彼らからはあいつらのような"偽物"が感じられない。
感じられるのはただ"本物"ばかり。彼らを疑う余地はなかった。もしくはそう信じたいだけなのかもしれない。
――――この島で暮らしはじめて、人を信じなくなっていったい何年になるだろう?
たとえ仮初めのものでもいい。彼らが出ていくまでの短い間だけでも信じてみようではないか。
「……ねぇ、アリヤ」
「ん?なんだ?」
「あのさ、僕。船の修理を手伝いたいんだ」
突然の申し出に彼は呆然と瞬きをしていたが、やがて嬉しそうにネルーの頭をがしがしと撫でた。
それから解放されてから吹き飛ばしてしまったことを謝ると、ウンディーネもまた嬉しそうに微笑んでくれた。
「よっし、ついて来いネルー!怪我すんじゃねえぞ!」
「うん!」
そう、夢を見よう。
カミノウタ
第10話
−うたかたのゆめ−
ヘビスは首を傾げていた。
今、彼の目の前には仲間たちと共に仕事を務める少年がいる。
名をネルーというらしいその少年は、つい数日前まではこの島に入ってきた自分たちを敵視していた。
決して早とちりでも何でもない。
実際ヘビスは小石をいきなりぶつけられたし、ウンディーネだって不思議な力で吹き飛ばされた。
間違いなくネルーは自分たちを敵視していたのだ。
……それなのに、これはいったいどうしたことだろう。
「ネルー、お前トンカチ使ったことある?」
「あんまり……」
「まあ使い方はわかるだろ?とりあえずやってみれ」
船員が指示した場所にネルーは木材の中にトンカチで釘を打ち込んでいく。
「筋が良いな」と褒められると、ネルーはたちまちくすぐったそうな笑顔を見せた。
――――ただただ、ヘビスは首を傾げるばかりである。
そのうちに、ヘビスとネルーの目がばちりと合った。
なんとなく目をそらせず、かといって気の利いたこともできずどうしたものかと困惑していると、
「この前、アリヤたちと一緒にいた人だよね」
目を合わせたままでネルーが話しかけてきた。驚きと困惑を覚えたまま、ヘビスは無言で頷く。
「この前はごめんなさい。いきなり小石をぶつけたりして……」
「………へ?」
思わずぱちくりと目を見開き、口からは間抜けな声が漏れた。
ウンディーネのように吹き飛ばされるのかといらぬ心配をして身構えていたから尚更だ。
「言い訳になっちゃうけど、あの時はまだ君たちのことがわからなくて。
でも今はアリヤのおかげでわかったから、もう二度とあんな事はしないし、言わないよ。
だから、そのー…なんていうか………」
そこで、ネルーの目が泳いだ。
その瞬間ヘビスの頭で何かが弾けたような音がして、彼の頭の中でよどんでいた疑問の霧がスッキリと晴れた。
あぁなるほどと納得して、ヘビスの口元は自然とほころんだ。
「いや、わいも怒鳴ったりしてもうてすまんかったな。
おあいこなんやし、気にせんでええって!ほれ、これでわいらはもうダチや!」
ケラケラと笑って、ヘビスは左腕でぐいとネルーを引き寄せ右手でぐしゃぐしゃと頭を撫でた。
するとネルーはひどく嬉しそうな笑顔を見せた。彼についてヘビスが首を傾げることはもうないだろう。
ネルーは少ない時間でほとんどの船員と打ち解けてしまった。
やがて警戒していた動物たちも心を和らげ、ゆっくりと森から砂浜へと足を運んでいく。
今まで何百匹と魔物たちと戦い死線をくぐり抜けてきた船員たちの中に、動物たちを拒む者はひとりとしていない。
「お前、こんなとこでひとりで暮らしててさみしくねえのか?」
「平気だよ。動物たちだっているし……」
「んだけどよ、動物が相手だとただの独り言になっちまうだろ?」
「そんなことないよ。僕はこの世に生を持ってる全部のモノの心を読めるんだ。
だから動物たちと話しだってできるから、独り言にはならないよ」
「へーぇ!すんげえ力持ってんだなぁお前!」
「なんかやってみせてくれよ!」
拍手を向けられたネルーは少しとまどったが、すぐに照れたように笑って手元の金属製のスプーンを手に取った。
簡単なものだけど、と前置きをしてスプーンに気を集中する。
するとスプーンはまるで火にあてられた飴のようにくにゃりと曲がり、船員たちの歓声を誘った。
先ほどよりも大きな拍手を向けられたネルーは更に照れてしまい、頬をぽりぽりと掻いた。
そんな彼をここに連れてきた当のアリヤは輪の中には加わらず、少し離れたその場で満足そうに微笑んでいた。
「アリヤ」
呼ばれて、振り返る。
「クラウドか。どうしたんだ?今日は愛しのウンディーネのそばにはいてやらねえのかよ」
「あいつ、お前が連れてきたんだろ?」
「……まあ、な」
アリヤの茶化しを流してクラウドは問う。アリヤもそれを気にしなかった。
「ネルーっていったか。あそこまで人を嫌ってた奴が、短い間でずいぶん変わったよな。
自分のいいところを引き出せるきっかけを与えたのはお前なのに、近くにいてやらなくていいのか?」
「んー……」
言葉を選ぶようにしてアリヤは黙ってしまったが、やがて口を開いた。
「なんていうか……あいつは、ずーっと動物だけを相手に暮らしてたらしいからな。
せっかく人と話すことを思い出して、今それを楽しみまくってんだ。それをオレが邪魔しちゃいけねえだろ?」
「なるほど」
苦笑いと共に出された言葉に、へへっと小さな笑いを返す。
それから少しだけ黙って―――柔らかに微笑んで、口を開いた。
「気分は兄か…父親ってとこだぜ、まったくよぉ」
「似てない親子だな。外見も中身も」
「っせーな。気分だって言ったろバカ」
「冗談くらいわかれボケ殺し」
険悪な空気が流れたが、それも一瞬。
双方すぐに笑い合い、未だに賑やかさの衰えない輪を見つめるのだった。
◆
そうして一時間ほど経ったあと、ネルーは動物たちは森の中へと帰っていった。
どうせ同じ島の中なんだからと自分たちと一緒に寝ればいいという案も出たのだが、
やはり大勢の中で寝るのは不安だし動物たちも落ち着かないとネルーが言うと船員たちはやむなくあきらめた。
帰り道でも草のベッドの上でも、ネルーは今日のことを動物たちとまぶたが重くなるまで話し続けた。
アリヤが他の人間と打ち解けるきっかけをくれたこと、数日前に迷惑をかけた人たちに謝れたこと。
トンカチの扱いが上手いと褒められたこと、記憶の彼方にあった、人と話す楽しさと嬉しさを思い出せたこと――――
久しぶりにはしゃいだ疲れからか、話しているうちにまどろんで寝入ってしまったけれど。
とにもかくにも、自分よりも重い過去と"炎の髪"とを持った男――――
昔の自分に似ているという理由だけで助けてくれたアリヤには感謝しなければと、ネルーは強く思う。
……口には出しはしないものの、アリヤや船員たちは自分を航海に誘いたがっている。
けれどそれは無理なこと。
彼らは良い人間だと思う。アリヤと黄泉などは科学者たちの魔の手から守ってくれた。
それは本当に感謝しているし、できれば恩を報いたいとネルーは考えている。
だが一緒に行くことだけはできない。どんなに頼み込まれても脅されても、それだけは絶対にできない。
自分がここを離れたら、いったい誰が彼らを守るというのだろう。
珍獣が住み着いているという根も葉もない噂を信じ込んだハンターや海賊が絶対に来ないという保証はまったくない。
数年経った今でも、ごくごくたまにそういう輩がこの島に足を踏み入れることがままある。
そのたびにネルーが力を上手く使い、得体の知れぬ恐怖を感じさせていたが
当然、珍獣でもない何でもない平凡なこの動物たちにそんな真似ができるはずもない。
だから。
所詮は泡沫の夢にしか過ぎない。
自分がこの島から出ることなど、今日のように外の世界の人間と暖かい会話を交わせることなど。
だんだん遠くなる意識の中で、ネルーは少しだけ悲しく――――さみしく、なった。
◆
時間は数時間ほど遡る。
フィーメル号が停まっている砂浜とは正反対に位置する岩場がある。そこに一隻の船があった。
闇色の帆にハーケンクロイツの紋章が描かれた暗黒の旗。禍々しいその船は隠れるようにして岩陰に停船している。
やがてそこへ、がさがさと茂みを揺らす男がひとり。
首筋には赤い線が四本。それは未だに止血されておらず、薄青いシャツの襟を真っ赤に染め上げている。
しかし当の本人にはそれさえも、服や靴に付着した葉も泥も、まったく頓着する様子はない。
ただ眼鏡の奥の瞳を憎しみに輝かせ、明らかな怒気に顔を染めていた。
と、甲板で気をつけをして立っていた青年が男を見つけたようで、別方向を見張っている仲間に何事かを叫ぶ。
すると彼らは規則正しく整列し、こちらに向かってくる男に揃いも揃って敬礼をした。
男はその列の横を妙な威圧感を放ちながら歩いていく。
が、少し遅れてしまった黒い髪をした青年が列に加わり敬礼すると男の目がこれでもかと見開かれた。
立ち止まった男は銃を取り出したが、引き金に指をかける気配はない。
ただ、握る手に力を込めて遅れた青年の顔を銃身で思いきり殴るということはした。
怒りは人の力を一時的に増幅させる。それは男も例外ではなく、殴られた青年は横に大きく吹っ飛ばされていた。
相当強く殴られたのだろう、鼻が大きく曲がり、鼻血が垂れている。見るも無惨な光景だった。
並ぶ他の青年たちは何かに耐えるように一層顔を引き締めたがそれ以外はまったく微動だにしなかった。
ただ単に動けなかっただけかもしれない。その時の男の顔はまるで気の触れた悪魔のようだったから。
男は服を整え少しずれた眼鏡を直し、舌打ちをして再び歩き始める。その足に迷いはなかった。
男が船の中に消えると、彼らは倒れている仲間に一斉に駆け寄った。
黒髪の青年がよろよろと上半身を起こそうとしたがうまくいかない。とっさに別の青年が体を支えてやった。
それぞれ栗毛とスキンヘッドの二人の青年はその光景を見守りながら眉間にしわを寄せていた。
「うっわ……鼻、ひん曲がっちまってるじゃんか」
「いつもなら見逃してくださるのに、どうしたってんだミルド隊長は」
「そりゃお前、あれだろ」
きょろきょろと辺りを見回してから、身を乗り出し声を潜めて言う。
「例のガキを捕まえ損ねたんだろ。お供してった三人も見当たんねえしさ」
「大の大人四人がガキひとりに負けるのか?いくらすごい力を持ってるっていってもなあ」
「部外者の可能性があるじゃんか」
それまで医務室へと運ばれていく青年から目を離さなかったスキンヘッドは、その言葉で初めて振り向いた。
それはないだろうという視線を送るものの、栗毛の表情にはふざけているような感じは見当たらない。
しかし、こんな無人島に自分たち以外に誰が来るというのだ。そう聞いてみると栗毛はあっさりと答えを返してきた。
「ついこの前、嵐があったじゃんか。あれくらいの規模ならどっかの船が難破してもおかしくない」
「それで偶然この島に漂流してきて、ガキに同情して手助けしたってか?
お人好しってのはだいたいが甘っちょろい奴だろ。そんな奴らに隊長たちがやられるとかありえねえって」
「……お前、気付かなかったの?」
「は?」
スキンヘッドは思わず間抜けな声を出してしまった。質問の意図がまったくわからないといった感じだ。
栗毛はそれに肩をすくめて返してから、表情を少し険しくして言う。
「首に四つくらい小さな穴が開いてて、そっから血がだらだらだったじゃんか。
あれはきっと……そう、爪みたいな武器で刺したんだ。じゃなきゃあんな傷できるわけないもんな」
「ちょっと待てよ。そんな傷負ったってことは……」
信じられないとばかりにスキンヘッドは目を剥く。
栗毛は彼から目を逸らし、代わりにずっと遠くを見つめた。スキンヘッドもそれに続くように水平線の向こうを見た。
「ガキを逃したうえに背後を取られたんじゃあな……そりゃ機嫌が悪くならないわけがねえよ」
「隊長を負かす奴なんて最近いなかったもんな」
栗毛はふっと軽く嘆息して、昇りつつある太陽の光に目を細めた。
◆
(あの野郎あの野郎あの野郎あの野郎あの野郎あの野郎あの野郎!!!)
苛立たしく足早に進む。自分の姿を認めて甲板で整列している部下たちには目もくれず。
しかし遅れたひとりが目障りだったので、とりあえず力任せに殴っておいた。
鼻が折れたようだったがどうでもいい。遅れる方が悪いのだ。
ハッチを開き梯子を降りたところで研究員が男―――ミルドを呼んだ。
ただ彼の尋常じゃない状態をひとめで察したのか、腫れ物に触るような態度だったが。
呼びかけにミルドが乱暴に応じると、研究員はおずおずと用件を告げ始めた。
「あの……ドレット様からの使いがおいでです」
ぴくん、と片眉が上がる。何を言われるかと研究員は首をすくめたが、放たれた言葉は案外あっけないものだった。
「で、今どこに?」
「は?……あ、ああ、はい。こちらです」
研究員は壁のつきあたりにある重そうな扉を指した。
「とっととしろ。待たせればどうなるか、お前でも理解できないわけではないだろう」
「は、はい」
駆け足で扉の前に立ち、開ける前に深呼吸をひとつふたつ。前もった覚悟が必要な様子だった。
そして、場の空気とは逆に軽やかに紡がれるノック音。呼びかけると応えがあり、研究員はまた深呼吸をした。
それが済むと、ちらとミルドの顔色を窺ってからドアノブに手をかけ、ゆっくりと重い扉を開けた。
昇る朝日の光をもろに浴びた二人は思わず目を細める。光に慣れさせるために時間をかけて目を開けると、
その先に赤茶けたローブを着、フードを被っている者の姿が見えた。しかし逆光となっているため、素顔は臨めない。
ただ、朝日とは違う冷たい光が二人を貫いた。それは彼の者の瞳から発せられたもの。
二人の身体に寒気が走る。先程まで怒りで火照っていたはずのミルドの身体もあっという間に熱を奪われた。
扉の前で研究員がさんざ深呼吸をし、覚悟をしたのは、この瞳に耐えるためだったのだ。
「これはようこそいらっしゃいました」
口を一文字に引き締めて泣きそうになっている研究員を下がらせるとミルドは一礼した。
形式的なものではあったものの、せっかくの歓迎の言葉をするりと受け流して使いの者はその口を開く。
「生物科学戦研究部隊隊長ミルド殿」
「……気軽にミルドとお呼びください、メジスト殿」
「じゃあ、ミルド」
応用の効かない小娘め――――胸中で悪態を吐く。
(ドレット殿の右腕だかなんだか知らないが、こんな気味の悪い小娘を通じなければならないとは。
通常の人間より感情の幅が小さいとは聞いているが冗談じゃない。そもそもあの瞳なんかはまったくの無機物だ……)
気を緩めれば一気に貫かれそうなあの瞳。
じんわりと浮かんでくる嫌な汗を感じながら、ミルドはメジストに続きを促した。
「今日は聞きたいことがあって来たの。あの兵器……」
「LGのことでしょうか」
「そう、それ。完成しているの?」
敬語を使える頭もないか。
「残念ながら、まだ」
「そう。できれば急いでほしいんだけど」
「お望みはいつ頃で?かなうように善処致しますが」
「そうね、それなら明日がいいわ」
メジストはさらりと言いのけてみせる。思わず睨んでしまうと、彼女は冗談だと手を振った。
「ドレット様はそれほど兵器を必要とされていないの。
そっちのペースで好きにしてくれればいいわ。ただし、できるなら急いでね」
皇帝も戦のことはだいたい私たちに任せてくれるようだし、とメジストは付け足した。
結局急ぐはめになるんじゃないと思いながら頷く。そして何故小娘に頭を下げなければならないのだとも彼は考えた。
しかし下手をすれば死を迎えるだろうことは知っている。ましてやドレットを侮辱すればどうなることか。
尻の青い若造がしでかすような愚行はせずに大人しくしている方がよほど賢いといえるだろう。
ところで、とメジストが切り出したのでミルドはそこで思考を停止させた。
「この船の指揮はあなたが?」
「そうですが」
「なら頼めるかしら。今日中にこの島を出発してほしいの」
予想外の言葉にまるで鳩尾を突かれたかのようにミルドは息を詰まらせた。
この島を今日中に出る?そんなことができるわけがない!
ネルーを諦めるという選択肢は彼の頭の中には存在していない。そのために彼は命令に抗おうと口を開いた。
「お言葉ですがメジスト殿、それはできません。
私たちがある子供を追っているのはご存じですよね?あの子供の力は非常に興味深い。
一度は研究してみないことには私たちの気が済まないのですよ。ですから今日中にこの島を出るというのは……」
「それ、どうしたの?」
「は?」
「首にあるその傷。どうしたの?」
首筋の四つの傷をゆっくりと指差されて納得したが人の話は最後まで聞くものだ。
胸中で苛立たしげに舌打ちしてから、ミルドはしかたなく説明を始めた。
わけがわからない理由で妨害をしてきたあの暗殺者の話しをすると、メジストは少しだけ目を見開いた。
そして微かに口の端を持ち上げ、微笑んでみせた。そんなことができたのかと驚いているうちに戻ってしまったが。
「なるほどね。暗殺者の誇り……黄泉らしいわ」
「!ご存じなのですか?」
「知っているも何も、ついこの前までドレット様の下で一緒に働いていたの。
もっとも今はもう暗殺の対象だけれどね。私がその任務を直々に任せられているのよ」
チャンスだ。思わぬ事態にミルドは自身の頬が緩むのを感じていた。
この小娘にあの憎たらしい暗殺者を殺してもらえればネルーを捕まえられる可能性はグンと上がる。
なんとしてでも任務を遂行してもらわなければ。こんなチャンスは二度とない。
「メジスト殿、それならばその黄泉とやらを今日中にでも殺してしまいましょう」
「今日中に?」
「そうです、今日中にです。メジスト殿はその者の暗殺を任せられているのでしょう?
ならば同じ島に滞在している今のうちにその任務を終わらせてしまいましょう。
こんなチャンスは二度とは巡ってきませんよ。大丈夫です、メジスト殿ならばきっとできるはずです」
「駄目」
「なっ…そんな、どうして!?」
「食事でもよく言うでしょう?一番楽しみにしているおかずは最後の最後に食べるのよ。
それと同じ。黄泉は私の大事なターゲットなの。今殺してしまうなんて、そんなのつまらないじゃない」
「く……」
それでは困る。せっかく見つけた研究対象をみすみす見逃すなどもったいないではないか。
今ここで引き下がれば今日中にここを出発することになってしまう。
絶対にそれだけは阻止しなければ。あの子供をかならず捕まえて研究所に持って帰るのだ!
「ですがメジスト殿、そればかりにこだわっていてはドレット殿の命令に背くことになってしまうのではないですか?」
ぴくん、とメジストの肩が動いた。
「暗殺命令を出すということはドレット殿にとって邪魔な存在ということ。
ほうっておけばいつか自分が危険に晒される。そういうことです」
「ドレット様が危険に……」
微かに声が揺れ動いている。ミルドは更に調子づいた。
「そうです!ドレット殿を敬愛されているメジスト殿にとってはそれは許されざることでしょう?
ちょうどいいチャンスが巡ってきている"今"を逃してはいけません。
黄泉とやらはかならずやドレット殿の地位を脅かし、その御身を危険に晒します。
そうなればもはや手遅れでしょう。メジスト殿、"今"がチャンスなのです。奴がこの島にいる、今こそが!」
しん、と沈黙が流れる。いつの間にかメジストは俯いていた。
ミルドの演説は彼女の心に少しでも響いただろうか。事がうまく運べばいいのだが……。
と、メジストは顔を上げた。これからどうするのか心を決めた様子だった。
「ミルド」
呼ばれた彼は、期待を込めて頷いた。
「残念だけど、あなたの期待に応えることはできない」
「なっ……」
「あなたの言うことは正しい。だけどね、今の黄泉では到底ドレット様には手を出せないの」
「そ、それは、どういう?」
「今の黄泉はぬるま湯の中に浸っているもの。
あそこから抜け出せない限りドレット様に手を出すことは出来ないわ。
私が動くのは命じられた時と、黄泉自身がふやけてしまう前に気付けた時だけ」
「そんな……もしその時が来なかった場合はどうするおつもりなのですか?」
「その時は私が向かうまでよ」
先程までの揺らぎは既に消えている。むしろ決意が固まったようだった。
火に油を注いでしまったことに気付いて、ミルドは悔しそうに奥歯を噛み締めた。
もう少し粘ってみるか?……いや、これ以上の刺激はまずい。しかしこのままではせっかくの――――
「ねえ、ミルド」
「は、はい?なんでしょう?」
「その傷、早く手当てした方がいいんじゃないかしら。
血は止まってきてるみたいだけど、消毒しないと黴菌が入って膿むと思うわ」
「……はあ、そうですね……」
今度は何を言われるかと思えば自分の身を心配してくれているような口ぶり。
本当にこの小娘は何なのだ。冷たい氷の瞳をしているくせにやけに人間くさいことを言ってくる。
とりあえず忠告された通り医務室に赴くことにしよう。首筋が化膿するなんて聞いただけでもぞっとする話しだ。
メジストに形式的な礼をして踵を返したものの、呼び止められたためにミルドは足を止め振り返った。
「返事をもらってなかったわ。今日中に出発できる?」
その返事を遮ったのは他ならぬお前じゃないか。心の中で舌を出しながら、ミルドは穏やかに苦笑を作ってみせた。
「ですからメジスト殿、それは……」
できません、と言おうとしたが、それは敵わなかった。
なぜならば凍り付いてしまうような寒気が彼の身体を襲ったからだ。
「もう一度言うわね」
メジストの身体から何かが迸っている。
抑えきれない感情が溢れだしてきているとでもいうのだろうか?
このままでは、あの瞳に真っ直ぐに身体を貫かれてしまいそうだというのに
目が逸らせない。
「今日中にこの島から出発できる?」
その声には何も感情は込められていない。
だというのに、これほどの激しい感情が感じられるのは何故なのか。
これは――――そう、ふつふつと湧いてくる幼い感情のようなものに似ていた。
自分の言うことを聞かない。自分の思い通りにいかない。まるで小さな子供が駄々をこねているような。
「できないの?」
また、寒気に襲われた。
「隊長、ミルド隊長。こちらですか」
とにかく何か言わなければと口を開きかけたその瞬間、ドアをノックする音が鳴り響いた。
それはたいした音ではなかったが、ぴんと張り詰めた空気の中にいたミルドを驚かせるには十分なものだった。
いつの間にか頬を伝っていたらしい冷や汗を拭いながら返事をすると、すぐにドアは開いた。
「失礼致します」
先程怯えに怯えていた部下とは違う者だった。
実に涼やかな顔をしている。奥で佇むメジストには気付いていない様子だった。
「なんだ。使いの方が来ているというのに」
「申し訳ございません。ですが、ご報告したいことがありまして」
メジストの存在に気付かせようと余計な気を回してみたが、そちらには一向に目を向けようとしない。
それほど急ぎの用事なのかと思ったが彼もまた額に汗が浮かんでいる。
単に気付かないフリをしているだけのようだ。ふぅと溜め息を吐いて、ミルドは彼を促した。
「問題の子供のことですが、砂浜にいる連中と交流を交わしている模様です。
このままでは連中とともに島を出て行ってしまう可能性が考えられ、早急に手を打つ必要があります」
「連中に気付かれずに子供を連れ去ることは?」
「残念ながらほぼ無理かと。しかし隙がまったくないというわけではありません。
子供は夜が更けると動物たちと森の奥に戻ります。この時を狙えば連れ去ることも不可能ではないでしょう」
なるほど、とミルドは頷いた。銃を用いれば邪魔くさいあの動物どもをすぐに排除できる。
怒り狂った人間の動きというのは直線的になりやすい。腕か足を狙えば容易に捕まえることだろう。
生命が危機に曝されない程度の傷ならば負わせてもまったく構わない。
さっそく作戦を立てなければと一歩前に出たところで、重大な問題が目の前に転がっていたことに今更気付いた。
しかしようやく巡ってきたチャンスを手放すことなどできない。そもそも何故今日中に出発しなければならないのだ。
それを問うと、メジストは静かに答えた。本部に戻ってLGの開発を手早く進めなければならないと。
ミルドは嘆息した。何年も追い求めてきたモノがようやく手に入るというのに!
けれど、従わなければ命はないだろう。残してきた家族にどれだけ迷惑がかかるかもわからない。
あの子供が連中と島を出て行動をともにすれば、運が向けば、チャンスは必ず巡ってくる。
その時までの辛抱だ。今はぐっと堪えて大人しく従っていれば良い。下手な動きはせずに、表面だけで従ってさえいれば。
◆
翌朝。
ネルーたちが砂浜に出向くと、とっくに船の修繕作業は始められていた。
見れば船の大部分は直っており、あとは細かいところや内装を直せば難なく航海を続けられる状態に戻るだろう。
あの船長も喜び、そしてみんなも喜ぶ。ネルーだってそれを祝福する。――――心の中で泣きながら、ではあるが。
心に穴があいたような気分を感じながら目の前で続けられる修繕作業を見つめていると、突然肩を叩かれた。
驚いて大きな動作で振り返ると、そこにはウンディーネの姿。
「そんなに驚かなくても…」
「ご、ごめん。ちょっとぼーっとしてたんだ。えと……何か用かな」
ネルーは少しどぎまぎして問うた。
小さな町で、そして無人島で暮らしてきたことがあってか、彼はウンディーネほどの美しさを持った女性を知らない。
そのためまっすぐに彼女を見て話しをするにはまだ緊張がつきまとう。
しかし鈍感なウンディーネがそれに気づけるわけがない。彼女はそのまま話しを続けた。
「うん、こんなところにいるからどうしたのかなって。…あ、アリヤさん呼んでこようか?」
「う、ううん。いいよ、ありがとう。……船、だいぶ直ってきたね」
「そうね。このままのペースで行けば明日には出発できるかな」
「……うん」
微かにため息が混じったその言葉にさすがのウンディーネも疑問を持ち、そしてひとつの可能性を感じ取った。
思わず確かめようとしたが、間髪入れずネルーが言葉を紡ぎ始めた。
「ねえ、君たちはどこに行くつもりだったの?」
「え……あぁ、魔法の研究が盛んに行われてるっていう、ルィサ王国ってところよ」
「ルィサに?確か、中央の方から来たんだよね。大変な仕事を頼まれたんだね」
「仕事…じゃないの。ちょっと調べたいことがあって……」
「調べたいこと?」
ウンディーネの物憂げなその瞳に、今度はネルーが気がついた。
少し間をおいて、ウンディーネは再び言葉を紡ぐ。
「私ね、記憶がないの」
「………え?」
「みんなを守るために、禁呪文っていうのを使ったんだって。モモカからそう聞いたわ。
ねぇ、信じられる?私、ティムライトっていう王国の王女なんだって。
しかもその王国はガダイ帝国っていうのに滅ぼされて、私は唯一の生き残りらしいの。
起きてみたら頭が真っ白で、自分の名前しかわからなくて。いきなり厳しい現実を突きつけられちゃったの」
ふふ、とウンディーネは苦笑いを浮かべてみせる。
「禁呪文で失った記憶は簡単には戻らないらしくて、大魔法っていうのを使えば戻るかもしれないの。だから……」
「だからみんなでルィサに?仕事もほっぽいて!?」
気付けば、ネルーはウンディーネに詰め寄っていた。
生活の糧に代わる仕事を放棄してまで、仲間の記憶を取り戻しに行くことが信じられなかったのだ。
「うん……私も申し訳なく思ってる。そんな急がなくてもいいって遠慮したんだけど、
前の港町で必要な物はうんと買い込んだし、ルィサで仕事を頼まれるだろうって。結局、私が説得されちゃった。
本当に申し訳なく思うと同時に、船長さんたちにはすごく感謝してる。
身よりのない私を船においてくれて、仕事もくれた。いつか恩返ししなきゃいけないって思ってる」
そう言ってふわりと笑う彼女を、ネルーは少し見とれながらも不思議そうに見つめていた。
彼女はゆっくりと上下に揺れる船からネルーに視点を変えて、
「ネルーは人を信じられない、って言ってたよね。……今も、そうなの?」
ぐっ、とネルーは言葉に詰まってしまった。
彼らと共に生きたいと強く願った時点で、おそらく彼は人を信じる気持ちを既に取り戻しかけているのだろう。
しかし――――
「僕はもう人を信じないって決めたんだ。だから悲しいけど、君たちのことも……」
「…そっか」
ウンディーネの残念そうな返答を聞いて、ネルーの心に小さな針がチクリと刺さった。
――――しかたがないことなのだ。
彼はこの島から出ることなどできない。動物たちを、この島を外部から守る使命があるのだから。
朝食の後片づけをするからと持ち場に戻るウンディーネを見送ったあと、肩の小鳥が小さく鳴いた。
不思議に思ってその羽に触れると、心に声が流れ込んできた。
なぜああ答えたのだと、小鳥はネルーをまるで責めるように問うている。
「僕は外の奴らから、君たちとこの島を守ると決めたんだ。
当然だろ?あの人たちはいい人たちだけど……でも、人間は信じられないよ」
ネルーの答えに小鳥は何も言わなかった。そんな小鳥にネルーは微笑んで、
「さあ、行こう?早くこの島から出られるように手伝ってあげなくちゃ」
さく、と砂を踏んで船に向かって歩き出す。ワンテンポ遅れて動物たちもそれに続いた。
だいぶ近くまで来ると、見覚えのある人影を見つけた。
「おはよう。えと……黄泉」
「……ネルーか」
黄泉はくるりと振り向いて、ネルーを見下ろした。漆黒の瞳が鏡のようにネルーを映している。
昨日は名前を教えてもらうだけだったうえに、まだ幼いネルーにとって黄泉は少し恐怖を覚える存在。
まわりのみんなはちゃんと船乗りの白を身にまとっているというのに、彼女だけは暗殺者の黒をまとっているからだ。
「船……だいぶ直ってきたね」
「ああ、そうだな。これならば明日にでもこの島を出ることが出来るだろう」
「うん……」
先ほどのウンディーネとの会話と内容があまり変わってないことに気づき、ネルーは思わず苦笑を浮かべる。
二人して浅瀬に浮かぶ船を見つめたまま黙り込み、そこで会話は終了すると思われた。
「……お前、あいつらと共に行きたいとは思わないのか」
「えっ?」
「船員たちに対する、昨日のお前の態度や言動。ずいぶんと心を開いているように見えた。
お前がこのまま行動しなければ今日中に船は直り、明日にでも私たちはこの島を出る。
そうすればお前はまた動物たちと暮らすことになる。よっぽどのことがないかぎり、もう私たちには会えないだろうな」
「……………」
「どの決断が自分にとって一番いいのか、それをよく考えるといい。ただ、それがお前に何をもたらすかはわからない。
善も悪も、幸も不幸も、どちらもお前の身に降りかかる。片方だけということは有り得ない。
お前も一度くらいは聞いたことがあるだろう。人生の幸と不幸はプラスマイナスゼロなのだと。
いいこともあれば悪いこともある。いつまでも後ろ向きになっていては何も変わらない。
自分に素直になると良い。迷っているときはそれが一番だ」
黄泉の横顔を、ネルーは不思議そうに見つめた。
「じゃあ黄泉も、あの人たちと一緒に行きたいって、それが自分にとって一番いいって……そう思ったの?」
「さて、な。あちらから来ないかと誘ってきたから、それに従ったまでだ」
そう言ってから、黄泉は左右に首を振った。まるで何かを振り払うかのように。
「……今朝は何やらおかしいな。ずいぶんと私らしくない」
それから不意に踵を返し、引き留める間もなく黄泉は船員たちが行き交っている中へと消えた。
その場に残されてしまったネルーは、ただぱちくりと瞬きするばかり。
「なんか、よくわからなかったけど……もしかして、励ましてくれたのかな?」
独り言のようにつぶやくと、傍らの狐が彼を見上げて「さあ?」と首を傾げた。
それに曖昧な微笑みを返して、今度こそネルーは船員たちの手伝いに向かったのだった。
それから少し、時間を流させてみよう。
月が浮かび星の瞬く藍色の夜空に、祝宴の始まりを告げる船長のかけ声が響き渡った。
船員たちのかけ声と木製のコップがぶつかり合う小気味良い音もそれに続く。
当然、コップの中身はたいがいアルコールである。
そして、浅瀬には船が浮かんでいる。ただそれには損傷が認められず、いつでも出発できる状態だ。
ジュースの入ったコップを手に、ネルーはじっとその船を見つめていた。
彼らとは明日の朝でお別れだ。
黄泉が言っていた通り、よっぽどのことがないかぎり二度と会うことはない。
――――ネルーの心の中で何かが渦巻いている。昨日から何度も味わっている、強い強い望みと否定。
ぎゅ、と拳を強く握り、ふるふると首を振って踵を返した。
もう、決めたのだ。
ネルーは奥歯をぎりりと噛みしめて、浮かびそうになった涙を必死にこらえた。
そして、次の日の朝。
朝日に輝く海を進み始めた船の背を、一人の少年と様々な動物たちが砂浜から見送っていた。
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あとがき
帝国のことが少しだけわかった10話でした。
ミルドがちょっと怖すぎますかね。銃で殴られるのはかなり痛そうです。
そして黄泉がネルーを励ましていたり。最近黄泉は大活躍ですね。
結局ネルーはついていくことはなかったのでしょうか。
ではまた次回に。
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