(……暇だなぁ)
彼女はこの声が聞こえたことによって意識を取り戻していた。
目の前は真っ暗だった。微かに光が見えるような感じもするけれど。
(なんだかんだ言っても、みんな軽傷だったみたいですし……まぁ、医者が暇であることはいいことなんですが)
芯のしっかりとした、優しそうな青年の声。彼は独り言を言っているようだった。
(…それにしても)
足音と気配が近づく。がたたと音がすると、青年の気配はその場に留まった。どうやら椅子か何かに腰掛けたようだ。
(いつ目を覚ますんだか、この人は…。みんながどれだけ心配してるかわかってるんでしょうか)
ふぅ、と息を吐く音が聞こえる。目を覚まさないとは自分のことなのかと彼女は胸中で疑問を抱く。
そして、そこでようやく目の前が真っ暗なのは目を閉じているからだということに気づいた。
…勇気を出して開けてみよう。
このまま目を閉じていても、どうにかなるわけでもないだろうし。
そう思って彼女はゆっくりと目を開けた。光が突然目に入ってくるものだから思わず目を細める。
ぼんやりとした視界も何回か瞬きをすることではっきりとしてきた。
そうして一番最初に見えたのは、自分の顔を覗き込んでいた白衣を着ている色黒の青年の姿。
彼女が目を開けたことに驚いていたものの、すぐに青年……ティルは彼女に話しかけた。
「目が、覚めましたか」
「…ここ、は?」
彼女は――――ウンディーネはなんだかズキズキとする頭をおさえながら、ゆっくりと起きあがった。
「医務室です。あなたはまるまる一週間、ずっと眠っていたんですよ。
あ、そうそう。あれから本を読み漁っていたクラウドから聞きました。
禁呪文を使って、無事に目を覚ますことができた人はとても少ないそうですよ。
なんでも死ななかったことでさえ幸運らしいですから」
「……クラ、ウド?」
「ええ、彼はあなたのことをとても大切に思っています。…それはあなたも同じ、でしょう?」
ティルはにこりと微笑んだが、ウンディーネは逆に困惑した表情を浮かべた。
「クラウドって、誰?それに、禁呪文って……?」
「…え?」
とたんにティルの笑顔が強張った。
それを見て、何かまずいことを言ったのかとウンディーネは更に困惑の色を濃くした。
最悪の事態が彼の脳裏をよぎる。ティルは思わずウンディーネの肩を掴み、問い詰めていた。
「そんな……冗談でしょう?私たちのことはともかく、七年も前から知り合っていたクラウドのことまで…!」
「えっ?だ、誰?」
「本当に覚えていないんですか!?しっかりしてください!彼とはあんなに親しくしていたじゃないですか!!」
「や…やめて!いったい何なの!?」
ついにウンディーネが声を張り上げた。演技……などではない。これは本当に――――
ティルは彼女に謝り、椅子から立ち上がった。まさか、こんな事態に陥ってしまうなどと考えもしなかった。
「私は…あなたが目覚めたことを船長たちに伝えてきます。おそらく、あなたにとって見たこともない顔ぶれでしょうが……」
多少頼りない足取りで彼はドアの前まで行き、ノブを回してドアを開いた。
…ウンディーネはいまだ困惑の表情を浮かべている。
「……だけど、あなたが懐かしさを感じとれるような人が……ひとりくらい、いるはずです。
それがきっと…クラウドという……あなたにとって、大切"だったはず"の男性です」
そう言うとティルはドアを静かに閉め、足音を響かせて船長室まで足を走らせた。
一方、医務室にただひとり残されたウンディーネはひとりつぶやく。
「私って……髪、短かったかな…?」
それからしばらくして、慌ただしい足音が近づいてきたかと思うと乱暴にドアが開かれた。
駆けつけてきた数人がウンディーネの周りを取り囲む。
「よかったぁ!目が覚めたんやな!」
「てっきり植物人間にでもなっちまうかと思ったぜ…」
「まったく、あんまり心配かけないでよね!」
モモカが腰に手をあてた。眉をつり上げて怒っているようにも見えるが、どこか嬉しそうだ。
「ああは言ってるけど、モモカ本当はすっごく心配してたんやで。
このまま死んじゃったらどうしよう!…って、言ってたくらいなんやから」
ヘビスがウンディーネに囁いた。どうやらモモカには聞こえないように言ったつもりだったらしいが、
しっかりと聞こえていたのかモモカは恐ろしい形相でヘビスを睨んでいる。
その場にいた数人に笑みがこぼれたが、状況がまったく飲み込めない彼女は恐る恐る口を開いた。
「あの…ごめんなさい、あなたたちは…?私はいったい…」
まわりの人たちの笑顔が強張り、和やかだった雰囲気が凍った。
また何かまずいことを言ったのかとウンディーネは不安げな表情を浮かべる。
「…自分の名前は、言えるか」
ほとんど引きずられて来た黄泉が不機嫌そうに彼女に問いかけた。
真っ白な頭を抱えて、ウンディーネはつぶやくように答える。
「名前は…二つあるの。ルゥ・クロスっていうのと――――」
「ウンディーネ・シェリル・ティムライト、か」
意表をつかれた彼女は思わず目を見開き、クラウドを見上げた。その時、一瞬だけ懐かしい感覚が彼女の胸を突いた。
何か…何か思い出せそうなのだ。真っ白いこの頭が、何かを訴えかけている。
「お、おい…どういうことだ?」
「…ついさっき、言っただろ。禁呪文を使った奴は…死ぬか、植物人間になるか…記憶を失うかだって」
「なるほど。幸運にも記憶を失うことだけに留まったというわけか」
クラウドはあくまで冷静に振る舞っているように見えたが、気のせいか悲しんでいるようにも見える。
続いて黄泉がぽつりとつぶやいたが、彼女は本当に冷静でむしろ無関心というように見て取れた。
しかし――――ウンディーネには、何が何やらさっぱりわからない。
自分を取り囲んでいる者らは誰なのか、ここはどこなのか、自分自身が誰なのかさえも。
頭の中が恐怖と不安で支配されて、パニックを起こしたのだろう。彼女は知らないうちに叫んでいた。
「おねがい、教えて!名前だけがわかってもどうにもならない!
何者なのか、どうしてここにいるのか!知っているのなら……そう、全部教えてよ!!」
「…厳しいことを言うようですが」
向こうで何か考え事をしていたティルがこちらを向いた。黒い肌のおかげで、金色の瞳が月のように光っている。
ティルはその月の瞳でまっすぐにウンディーネを見据えてから、口を開いた。
「私たちが教えることで、ああそうか、と納得して記憶が戻るとは思えません。
自分で思い出すことができなければ…あなたの記憶は戻りませんよ」
モモカがティルを睨んで何かを言おうとしたが、すぐに口を閉じてしまった。
そのかわり、クラウドがそうだな、とつぶやいた。
「この前調べた本によると、禁呪文を使った奴の記憶は一筋縄じゃ戻らないらしい。
たとえ俺たちがすべて教えても……記憶は戻らないだろう」
「だけどクラウド。そないなこと言ったって…どうすんねん?このまんまじゃにっちさっちも…」
「ああ…」
それが問題だな、とクラウドが腕を組んだ。
ウンディーネにもその禁呪文というのはとても危険な呪文だということが感じられた。
使うと命を落とすか、植物人間になるか、彼女のようになってしまうか…。
そこで……彼女は不思議に思う。
――――私、どうしてそんなに危険な呪文を使ったのかな?
カミノウタ
第7話
−目覚め−
「なっ…ちょ、ちょっと待てよクラ!そりゃどういうこった!?」
「クラって呼ぶなって何回言えばわかるんだよ。
…どういうことだって言われても…言葉通り、あいつは記憶を失ったんだ」
「…マジか?」
船長は信じられないという表情を浮かべた。
「本当に何も、ひとつも覚えてねえのか?」
「覚えてるのは自分の名前だけだった。あとは全部…すっぽ抜けてる」
「おめえの、こともか」
船長の問いに、うつむいたままクラウドは頷いた。
いつもの無表情ではない。寂しそうな、悲しそうな…彼が初めて見せる表情、だった。
船長は腰に手をあて、クラウドと同じようにうつむいた。
「そう、か…。じゃあ、ますます"あいつ"のところに行かなきゃいかんことになったな」
「"あいつ"?」
クラウドが少しだけ顔を上げた。おう、と船長は返事を返す。
「ガキん時からの、古ーいダチだ。今はサゥドで、記憶とか人の脳に関することを研究してる。
あいつは昔っから頭はいいし、知識も豊富だ。ウンディーネ…の記憶を取り戻す手がかりを何か握ってるかもしんねえ」
「そうか…。じゃあそこまで、よろしく頼む」
「おう、任しとけ。おめえもあんま落ち込むんじゃねえぞ」
「ああ…」
船長の言葉にクラウドは頷き、踵を返して船長室を後にした。
物音ひとつ聞こえない廊下を少し痛む足で進み、自分の部屋に辿り着きドアを閉めたところで彼は拳を壁に叩きつけた。
ドン、という大きな音が響き渡る。そのままずるずるとクラウドは床に座り込んだ。
「くっ、そ…」
本当に、何ひとつ覚えていないなんて。自分のことも――――五年前、自身に起きたことさえも。
早く、一刻も早く記憶を取り戻してやりたい。このままだなんて辛すぎる。
――――だけど、とクラウドは思い直した。
記憶を取り戻す、ということは当然ながら忘れていたことを思い出すということ。
ティムライトでの悲劇や、あの魔導師への憎悪を再び思い出させる形になる。
すべての記憶が戻る時、彼女は彼女でなくなってしまうのではないか。…そんな恐怖にも似た感情が、心にある。
……ふと、気づいた。自分は彼女に対して、どんな想いを抱いていたのだろう?
◆
その男は眼鏡を光らせた。
「…記憶喪失?」
「ああ。なんか、取り戻す方法ないかと思ってな…」
あれから二日後。
無事港町サゥドに着いた船長たちは、ベンという男を訪ねていた。
彼の家には溢れるほど大量に本があった。いくつもある本棚にも収まらず、
机や床の上にもぶ厚い本を五冊積んだ物が見た限りでは十つほど。
海の男そのままの船長の古くからの友人とはとても思えなかった。
「まったく、君は来るたびに厄介ごとを抱え込んでくる。…今度は記憶喪失のティムライト王国第一王女か」
「え、えと…ごめんなさい」
ため息をつくベンに対して悪気を感じてしまったウンディーネは慌てて頭を下げる。
そんな彼女を見てベンは「別にいい」とフォローを入れた。
「それで王女。あなたはどうして記憶喪失に?」
「禁呪文を使ったんです。どうして使ったのかはまったく覚えていないんですけど…」
「……何か覚えていることは?」
ベンの問いにウンディーネはしばらくうつむいていたが、顔を上げると横に首を振った。
「いえ…覚えているのは、自分の名前くらいで…」
「ふむ、なるほど…。少々厄介だな…」
「む、無理なのか!?」
「アリヤ…だったか?そう焦るな、まだ無理って決まったわけじゃない。
催眠術という手もあるが…無理に引き出せば、脳に少々障害が残る可能性がある。
やっぱり禁呪文を発動させた時のような強いショックを与えるのが一番妥当だね」
「強いショックっていうと…やっぱり、鈍器で頭を殴るとか?」
恐る恐る尋ねるヘビスの言葉を「単純に考えすぎだ」と一蹴すると、ベンは胸の前で腕を組んだ。
「確かにショックを与えることには違いないが、下手をしたら死んでしまうだろう。
たとえば…そうだな、禁呪文ほどではないが大魔法を唱えることができれば可能かもな。
大魔法は、使う時に消費する精神力が普通の魔法と比べて半端じゃない。
脳にも強烈なショックを与えるだろう。かろうじて障害が残らないくらいにな。
大魔法を修得し、使用するのは難しい。だが禁呪文を唱えられるのなら簡単だろう」
「…ウンディーネ、どうだ?できそうか?」
少し間を空けてクラウドがウンディーネに問うと、彼女は少々ためらっていたがすぐに力強く頷いた。
と、アリヤが少し困惑した表情で口を開く。
「でも問題なのは、どんな大魔法を使うかってことだよな…。
ウンディーネの魔力はすっごいしよ、下手に使えば大変なことになりかねないぜ?
クラウド、お前って魔法使えるんだろ?何かいいの知らねえか?」
「いや、大魔法については俺もあまり触れたことがないんだ。
どこか……魔法書が大量にある都市でもあればいいんだけどな」
「ふむ。なら、ここに行ってみたらどうだ?」
ベンは棚から四つに畳まれた羊皮紙を出し、机の上に広げた。世界地図である。
少々視線をさまよわせた後、彼は北の方にある大陸を指差した。
「ラーガム大陸で栄えているルィサ王国。ここは魔法の研究が盛んに行われている。
大魔法について書かれている書物も簡単に見つかるだろう」
「ベン、ここからだったらだいたいどれくれえかかるんだ?」
「そうだな…良好な天候が続けば、せいぜい五日ってところだ。食料は大丈夫か?」
「おう、オリーブで嫌ってほど買い込んだからな。次の目的地はここに決まりだ!」
「だがハザード。最近この辺は天候が不安定だ。嵐が多く、難破している船もある。十分に気をつけた方がいい」
「おぉ、そりゃ危ねえな」
そこでハザードは、ウンディーネ、クラウド、ヘビス、アリヤを振り返った。
「おめえらはいち早く戻ってルィサ王国に行くことをみんなに伝えてくれ。オレ様は残ってベンと航路図を見繕う。
この地図を見るに、まーっすぐ北に進めばいいっぽいが嵐が起こらねえとも限らねえからな」
「何か買い足すもんとかはあらへんか?」
「んー…何が必要かまだわかんねえからな…。いいや、オレ様が帰りに買ってくるわ」
ヘビスは頷き、「んじゃ戻ろか」と残りの三人を促した。ベンの家を出たところでアリヤが大きく伸びをし、あくびも漏れた。
「いやー…あのベンって奴、船長のダチとは思えなかったなぁ」
「そうだな。知的って感じしたし、ぶ厚い本が何十冊とあったし…」
クラウドがアリヤの言葉に同意した時、ヘビスが人差し指を左右に振った。それと同時に舌を鳴らした音も三回鳴る。
「二人とも甘いな。船長のこと、なーんもわかっとらん。何も考えてなさそうに見えるけど、実は結構なキレ者なんやで?」
「…ヘビス、それ何気に失礼な言い回しだってことに気づいてるか?」
得意げにしているヘビスにクラウドがつっこみを入れた。だが気にせずヘビスは続ける。
「ふ、わいはもう六年もあの船で働いとるんや。この前だって――――」
そこで言葉を止め、ヘビスは路地裏へと走り去ってしまった。
残された三人は顔を見合わせていたが、すぐにアリヤとクラウドがほぼ同時に後を追いかけた。
慌ててウンディーネも二人に続く。そして路地裏に出た時、声にならない声を上げた。
そこには衣服の中に埋もれている、薄茶色の瞳を持つ蛇がいたのだ。
「そりゃ最近変身してねえなーとは思ってたけどよ…よりによってこんな町のど真ん中でかよ」
「元の姿に戻るまで待つしかないな…」
「え…も、もしかして…ヘビス?」
ウンディーネの問いに、蛇は答え代わりにチロチロと舌を出し入れした。がりがりとアリヤは頭を掻く。
「あー…こいつさ、ガキん時にドレットって奴にうっかり呪われた蛇のタトゥーをもらい受けて、蛇に変身する体になっちまって…。
しかもいつ変身するかわからないと来たもんだ。ま、変身するその瞬間がわかるってのが唯一の救いだな」
「ど、どれくらいすれば元に戻れるんですか?」
「あんま長くはねえ。五分か十分…もうすぐだな。……って、やべえ」
ウンディーネは不思議そうな顔をしたが、アリヤの意志をくみ取れたクラウドが彼女の目をふさいだ。
何がなにやらわからない彼女にクラウドがため息混じりに告げる。それと同時に、ぼんっという音がした。
「服が散らばってるの見ただろ。元に戻った時は素っ裸なんだよ」
「はあぁ…裸でなきゃまだええんやけどなぁ…」
「ぼやいてねえでとっとと服着ろ。こんなとこ誰かに見られたら説明のしようがねえ」
確かに、とクラウドは思った。こんな路地裏に男が三人に女が一人。
しかも男の一人は素っ裸で、女は目をふさがれている。警察を呼ばれても文句は言えない状況だ。
「…ヘビス、終わったか?」
「おう、OKや。っていうかなんでお前まで後ろ向いてんねん。男同士なんやから平気やろ」
「好き好んで同姓の裸を見る趣味はない。…異性の裸を見る趣味もないけどな」
じゃあ異性の裸を見る趣味はあるのか、といういかにもヘビスとアリヤがしてきそうな質問を事前に防ぐようクラウドは言い回す。
そして自らヘビスが元通り衣服を身にまとったことを確かめると、ウンディーネの目を覆っていた手を外してやった。
「あぁ驚いた…。それにしても、蛇に変身するなんて大変ね…」
しかも戻る時は裸なんて、と胸中で付け足す。
「おう…。ったく、なんでドレットはわいを呪ったんや?理由がさっぱりわからん」
「それはいいからとっとと船に戻ろうぜ。なんか腹減っちまった」
そうして船に戻ると、一番最初にモモカが駆けつけてきた。
いまにも掴みかかりそうな勢いで「どうだった!?」と言葉を投げつける。
少したじろぎながらアリヤがそれに答えた。
「お、おう。ベンによると…禁呪文を使った時みたいな強烈なショックを……
えと、脳に与えることができれば記憶が戻るらしいぜ。なんでも大…」
「それで!?大魔法をどうすんの!?」
「えっ?あ、ああ…大魔法のことを載ってる本を探しにルィサ王国ってとこに…」
「…そう、わかったわ」
アリヤが言い終わるか終わらないうちに、モモカは踵を返して去っていった。
不思議そうな顔をしてヘビスがアリヤを見上げたが、彼も肩をすくめるばかり。
ウンディーネとクラウドも唖然としていたが、やがてクラウドははっとした。
先ほどのやりとりがやけに心に残る。
(あいつ…どうして大魔法のことを?)
――――それが彼女に対する、ほんの小さなひっかかりだった。
◆
結局買い食いしてきた船長が戻ってきたところで船は出港した。
船長とベンが見繕ってきた航路図によると、やはりこのまままっすぐ北上すればラーガム大陸が見えてくるらしい。
ただ、やはり北上するに連れて気温は下がってくるらしい。
そのため船長は買い食いついでに毛布や防寒着などを大量に買い込んできたようだった。
「あ、あとベンが言ってたんだけどよ。ラーガム大陸の周りには、小島がいくつかあるらしいぞ。
そん中には無人島もあるらしい。んで、もし嵐に遭って難破した時も運がよけりゃあ
その小島に流れ着いて、船の壊れたとこを直すこともできるかもしれねえんだとよ。
そういうわけで、もし嵐に遭って難破してもまったく問題はねえわけだ!」
そう言って船長は豪快に笑ったが、嵐に遭って難破なんて考えたくもないことだ。
まぁ対策が十分に取られているのだから、大丈夫だとは思うのだが。
しかし…クラウドがこの船で働き始めてから、嵐に遭遇したことは一度もない。
比較的天候が安定している中央大陸を中心にしてしばらく仕事を続けていたのが原因だ。
実際嵐に遭い、船長や他の船員の指示に従うだけで事を上手く運べるとは限らない。
ここはひとつ、船長か誰かに教えを乞うべきだろう。
「なぁ船長。俺、まだ一度も嵐に遭ったことがないんだけど…」
「ん?おぉ、そうだな。いきなり実戦ってのも危ねえしなぁ。うし、ここは経験者が教えるのが一番だ。
たぶん今暇して暇して退屈で死にそうになってるだろうから、ヘビスに教えてもらえ」
相手が頼りないヘビスということで少々不安もあったがクラウドは頷いた。
そうして甲板からヘビスの部屋へと向かおうとしている途中にモモカの部屋の前を通りかかった時、
怒声と何かを殴るような音が数回聞こえてきた後にすぐ部屋のドアが開かれ、ぼろ雑巾のようになっている人間が放り出された。
大きな音を立てて乱暴にドアは閉められ、ぼろ雑巾とクラウドだけがその場に取り残される。
「…おい、大丈夫か?」
「……うっ……」
しゃがんで声を掛けると少しだけ反応を見せた。どうやら半殺しの目に遭っただけようだ。
焼け石に水だろうが回復魔法を唱えてやると、体を震わせながらゆっくりと
"彼"は起き上がった。そのまま壁に体を預ける形になる。
「ヘビス…お前、"また"モモカにやられたのか?」
「ま、まぁな…。これも、愛の試練や…」
そう言ってヘビスはへへ、と自信ありげに笑ってみせる。
そこまでモモカを好いているのかとクラウドは呆れてしまった。
ヘビスといいアリヤといい、"しつこい男は嫌われる"という言葉を知らないのだろうか。
「にしても、クラウド。こんなとこでどないしたんや?仕事とかは…?」
「ああ、船長からヘビスに嵐の時の処理を教えてもらえって言われたんだ。
…でも、その状態じゃ他をアテにした方がよさそうだな…」
クラウドはため息をついた。回復魔法で多少癒したといってもヘビスは体中アザだらけ。
これでは教えを乞うのは無理というものだろう。アリヤあたりに頼むのが妥当だ。
「ヘビス、肩貸すから立てよ。医務室行くぞ」
「こ、こんなんヘーキヘーキ。ル…ウンディーネのとこ連れてってもらえば治……」
そこでヘビスは急に口を噤んだ。一瞬のち、彼はうつむいて一言だけつぶやいた。
「…すまん」
答え代わりに、クラウドはヘビスの片腕を自分の肩に回して立ち上がった。ヘビスもよろりと立ち上がる。
一歩一歩ゆっくりとヘビスは半分引きずられる形で歩を進めていく。だが途中で違和感を感じ、思わずクラウドを見た。
この道は違うぞ、と言いたげに。だがクラウドは何も言わず歩き続ける。
そうして着いたのはある部屋に繋がっているドアの前。ヘビスは目を見開いた。
「ちょっ、クラウド…ここって…」
だがクラウドはまたもや何も言わない。さすがにいらついたヘビスは少し責めるような口調で話し出した。
「何やってんねん!あいつはもう魔法は使えないはずなんやで!?」
「…確かに頭は覚えてないかもしれない。だけど、体は覚えてるはずだ」
「はぁ!?何言って…」
ヘビスの反論が終わるのも待たずに、クラウドはドアをノックした。
◆
「?これ…?」
着替えなどが入っていた鞄の中から、ウンディーネは一冊の白い本を見つけた。
暇で暇でしょうがなかった彼女は、何か記憶を取り戻す手がかりを見つけ出そうと
部屋の中を漁ってみることにした。そして手始めに鞄の中を漁ってみると、この本が出てきたのだ。
厚さはかなりあるし、持つ手にずっしりとした重さが伝わってくる。
表紙も裏表紙も無地。縦幅はちょうど彼女の太股ほど。横幅はその太股の上にのせても多少余るくらいだ。
いったい何の本かと思ったウンディーネは、その本を机の上に置いた。見る限り辞書の類ではなさそうだ。
(…見てみよう)
そう思って、適当なページをめくる。…どうやらその本はアルバムのようだった。
一ページごとに四枚の写真が貼られ、写真の下にはそれぞれ細長い紙が貼られている。
思わず彼女は身を乗り出しそうになった。アルバムには記憶を取り戻す手がかりが大量に眠っているに違いない。
ウンディーネはまず、親子らしき四人が写っている写真に目を向けた。
肩に触れる程度の銀髪の、六歳ほどの少女。これはおそらく自分だろう。
隣で穏やかに微笑んでいる細目の少年は八歳くらいに見える。…王子である、兄か。
そして兄と彼女の肩に手を置いている男と、緩やかなウェーブがかかっている美しい銀髪の女は。
「…お父様、お母様…」
無意識に紡いでいた言葉に自分で驚いた。
――――やはり、このアルバムは記憶に関する重大な手がかりになりそうだ。
ウンディーネはぱらぱらとページをめくっていく。
幼い頃の自分が二つほど年を取った時、家族写真から母親の姿が消えた。
不思議に思い、母親の姿を探すように次々とページをめくっていくがまったく見当たらない。
それと同時にまた二つ自分は年を取り、エルフであるはずの父は一気に老け込んでいくように見えた。
そして、今度こそ彼女は身を乗り出した。ある写真に何故だか見覚えのある十二歳ほどの少年が写っていたからだ。
小麦色の髪に印象的な瑠璃色の瞳。写真の下に貼ってある細長い紙には、こう記されている。
"今日から新しく護衛についた、クラウド・ルーベメルと。"
少し緊張した表情で自分と一緒に写っている少年はまさしくクラウド本人。
ただ、今のように額にバンダナは巻いていないようだった。
そしてぱらぱらとページをめくっていくと、クラウドもまた写真から姿を消した。
…医務室で聞いた、ティルの言葉が脳裏に蘇る。
(…だけど、あなたが懐かしさを感じとれるような人が…ひとりくらい、いるはずです。
それが、クラウドという…きっとあなたにとって…大切"だったはず"の男性です)
確かにクラウドを目にした時、強い懐かしさが一瞬だけ彼女の胸を突いた。
なんだか、ずっとずっと昔から知っているような――――
そこで、はっとした。
ティルはこうも言っていなかったか?
自分たちのことはともかく、七年も前から知り合っていたクラウドのことまで、と。
(クラウドは私の護衛をしていて…何らかの理由で王国を離れた?そしてこの船で働き始めて…)
自分と何年ぶりかの再会を果た……いや、待て。
仮にも一国の王女である自分が、何故ここに来て働き始めたのだろう?
そうだ、何故今になるまで気がつかなかった?
自分が本当に王女であるのならば、ここで働いているのはどう考えてもおかしい。
もしかして、退屈だろう王女暮らしが嫌になって城を出たのだろうか?
だが写真の中の自分は幸せそうだ。わざわざ幸せな暮らしを自分から捨てたとは考えられない。
となると――――
と、コンコンとドアがノックされた。ほぼ反射的に彼女はどうぞと返事を返す。
するとドアは開かれ、二人の少年が顔を見せた。ただ、一人は傷だらけだ。思わずウンディーネは席を立った。
「ヘビス!?どうしたの?それ…」
「あんまりしつこいから、モモカにやられた。…ま、いつものことだ」
ヘビスの代わりにクラウドが答える。彼の姿にどきりとしたが、あまり表情には出さずに二人に駆け寄った。
確かにモモカは気が強く、少々短気というところもある。だがヘビスがしつこくしたからといって
ここまでやる必要はないのではないか、とウンディーネは思わずにはいられない。
「とりあえず医務室に行かないと――って、どうして二人はここに?」
ウンディーネは小首を傾げた。二人が自分の部屋に来た意味がわからないからである。
彼女には医療の知識がない。もしかしたら記憶を失う前にはあったかもしれないが、
一切の記憶を失っている今の彼女には、それもまったくの意味を成さない。
二人にもそのことはわかっているはずだ。
「それが…まっすぐ医務室に行けばええのにクラウドが…」
ヘビスがクラウドを見上げた。
「なんや、"頭は覚えてないかもしれないけど体は覚えてるはずだ"とかなんとか言い出したんや。
棒術ならまだわかるけど、魔法って体で覚えるようなもんやったのか?」
ウンディーネも同じようにクラウドを見上げたが、彼はいつもの無表情を保っている。
自ら膝をついてヘビスを座らせると、今度はクラウドがウンディーネを見上げる形になった。
なんとなく立っているのが気まずくなって、彼女も床に膝をついた。
「ヘビス。お前、モモカにやられた後はいつもウンディーネに治してもらってたのか?」
「…ああ、そうやけど」
「どんな風に治してもらってたんだ?」
「えっと…」
ヘビスは思い出すように上を向き、頬をぽりぽりと掻いた。どことなく不機嫌そうだ。
「傷口に手をかざして、魔法の文言を唱えるんや。したら光がぽわーって出て、その光が消える時には傷は治ってた。
小さなすり傷とかはさすがにやってもらってなかったけど、アザとかはだいたいそれだけで…」
ヘビスの言葉が終わらぬうちに、クラウドは「そうか」と頷いた。
「ウンディーネ」
クラウドがまっすぐにウンディーネの目を見つめたせいで、彼女の胸はまたどきりと高鳴った。
彼の言いたいことが理解できた彼女は頷き、ヘビスの体にある一番大きなアザに手をかざす。
すると、ズキンと頭が痛んだ。脳裏に知らないけれど知っているやりとりがよぎる。
(ヘビス、またやられたの?)
(お、おう…今回はちっと辛かったな…。また、頼んでええか?)
(構わないけど……いつもいつも、体中傷だらけになってて大丈夫なの?)
(いーや、これはモモカからの愛の試練なんや!これを乗り越えたとき、モモカはきっとわいを認めて――)
(はいはい…いいからじっとしてて)
(おぉ、毎度毎度おおきにな!)
(お礼なんていいってば。でも――――)
「あんまりしつこくしすぎると、それこそモモカに嫌われるかもしれないわよ?」
無意識に紡いでいた言葉と、強い光が彼女を現実へと引き戻した。
見ると光は一瞬だけだったようで、ヘビスの体中にあったアザも綺麗さっぱり消えていた。
ヘビスはこれでもかというほどに目を見開いている。
「き…記憶が…元に戻ったん、か?」
ヘビスの問いにウンディーネは左右に首を振った。クラウドが「やっぱりそうか」とつぶやく。
「頭が覚えてなくとも、体は覚えてるんだ。特に今のは、ウンディーネが一番唱え慣れてた魔法だったしな」
魔力の制限がうまくいかなくて全部治しちまったみたいだけど、とクラウドが付け足すとヘビスがこくこくと頷いた。
元気の出たヘビスはウンディーネに礼を言い立ち上がった。
そこで机の上に置いてあったアルバムの存在に初めて気づき、声を上げた。
「あ、あれって、もしかして写真ってヤツやないか!?さっすがティムライト、技術も進んでたんやなー!」
そう言ってヘビスは無邪気にはしゃぐ。さすがにウンディーネの横をすり抜けて
アルバムを勝手に見るなんてことはしないだろうが……。
彼女の穏やかではない心中を察したのかクラウドがヘビスの服の端をちょいちょいと引っ張った。
「ヘビス、言っただろ。嵐に遭った時の処理を教えてくれ」
「あ!そ、そやったな。んじゃウンディーネ、治してくれてホンマおおきにな!」
「あ、ううん。…仕事、頑張ってね」
「おう!」
ヘビスが威勢よく返事を返し、クラウドも応えるようにして頷いた。
ドアが静かに閉められ、ただ一人残された部屋に静寂が広がる。
ウンディーネは踵を返し、記憶の手がかりを得ようと再び机に向かった。
写真の自分は…十二、三歳頃だろうか。少し浮かばない表情だ。が、何かを心待ちにしている表情でもある。
彼女は頬杖をついた。一瞬頭が真っ白になって、見覚えのある光景がフラッシュバック――――
あれが真っ白だった記憶の一部を取り戻す……忘れていたことを思い出すということか。
…すべての記憶が戻った時、自分はどうなるのだろう?どんなことを想うのだろう?
◆
「…ってことで、嵐には強風がつきものや!そんな時に帆を張ってから風を受けてひっくり返るやろ?
そんなわけで嵐に遭ったらまず帆をたたむ!これをまず一番にやらんとな」
一方、甲板に出たクラウドはヘビスの教えを受けていた。今は天候は安定しているが
いつ天気が崩れ嵐になるともわからない。本来、海の上というのは天気が変わりやすいものなのだ。
「次はほっぽったら危険なもんを片づける!特にかぎ爪付きロープとかは船体が揺れた時に
誰かの体に突き刺さるとも限らへん。これも急いでやらんとな!」
「ふむ、なるほどな…。それで?」
「木箱や樽とかも船の中に持ち運ぶんや。船が傾いて食料や道具の入った樽とかが
海の中に落ちてしもうたら、今後の航海に支障をきたす可能性もじゅーぶんにあり得るからな!」
ヘビスはまるで学校の先生にでもなったつもりで胸を張って説明していく。
クラウドは一言も聞き漏らすまいとそんなヘビスの説明を熱心に聞いている。なんだか妙な光景だ。
そうして一通りの説明を終えてしまうと、ヘビスは船長やモモカがするように腰に手をあてた。
「…ま、こんなとこやな。後は船の中に避難して嵐が終わるのを待てばええ」
「そうか。ありがとな、これで嵐に遭っても大丈夫そうだ」
クラウドがそう礼を言うと、ヘビスは照れたように頬を掻いた。
「なんやねん、礼なんてええって!それよりさっきはすまんかったなぁ」
「何が?」
「何が、って…ウンディーネのことや。あれ、いわば大魔法の予行練習みたいなもんだったんやろ?
そうだよなぁ、いきなし大魔法やれっちゅーっても無理があるってもんや。
やっぱクラウドはいろいろ考えてるんやな!ますます見直したわ!」
そう言ってヘビスはばしばしとクラウドの背中を叩き、嬉しそうに笑う。
一気にまくし立てられたクラウドは返事のしようがなく、何も言えなくなってしまった。
と、傾きかけている太陽を見つけてそろそろ夕食時だと気づく。
「ヘビス、もうそろそろ…」
「ん?あぁ、もうそんな時間か。時が流れるっちゅーのは早いもんやなぁ」
ぐーっと伸びをすると同時にヘビスの腹時計が鳴る。
ヘビスは照れたように小さく笑い、クラウドもそれにつられるようにして
笑みを浮かべると、途端にヘビスがあっと声を上げた。
「なーんかクラウド、久しぶりに笑ったんちゃうか?」
「え?そうか?」
「そやそや。なんや最近は前にも増して気ぃ難しい顔しよっとったで。
ま、あんなことがあってへらへら笑っとれる奴なんかおらんだろうけどな。…っと、あれ?」
甲板から降り食堂へ向かっている途中、ヘビスが急に足を止めた。
「なぁクラウド。ウンディーネって王女なんやろ?だったらなんであの日…港で倒れてたんやろ?」
ぴた、とクラウドも足を止め振り返った。ヘビスは胸の前で腕を組み怪訝な顔をしている。
「いや、なんか気づくの遅すぎやけど…。王女暮らしが嫌になって飛び出した…っちゅーのはないか。
ウンディーネは責任感強いし、自分から城飛び出したって感じでもなかったしなぁ…。クラウド、何か知らへんか?」
「ああ、一応聞いたことはある。ある夜にピエロみたいな格好をした得体の知れない
子どもに城から移動魔法で連れ去られて、それで、気づいたらこの船に乗っていたらしい」
「ふうん…?それ以来、その子どもは?」
クラウドが肩をすくめるとヘビスは更に怪訝な顔をした。
「なんやねんそれ。んじゃ、その子どもは何のためにウンディーネを連れさったんや?」
「さあな…俺が知るわけないだろ。とりあえず食堂行くぞ」
クラウドはヘビスの返事も待たずにすたすたと歩き出した。ヘビスが慌てて後を追いかけ彼と肩を並べる。
(…あいつはこうも言っていたな。あいつと俺は、"大戦争を止める鍵"のひとりなんだって)
クラウドは食堂へと歩を進めながら考え事をしていた。いつもよりも気難しそうな表情である。
(ということは、他にも数人はいるってことか。
……でも、難易度の高い移動魔法をどうして小さな子どもが唱えられるんだ?
あれは五年修行を積んだ魔導師でも修得するのに半年はかかるってのに…。いったい何者だって言うんだ…?)
ウンディーネのことを疑っているというわけではない。ただ、現実離れしすぎているのだ。
禁呪文を唱えても倒れない不老不死の体も、城の警備をくぐり抜け移動魔法を唱えられるほどの実力を持つ子供も。
メジストだけではない。恐らく、そのピエロ風の子どもも人間とは言い切れない者だろう。
先を予見して戦争を事前に防ぐために幾人かを選び…その中にはウンディーネとクラウドも含まれていた。
そして二人を引き合わすためにウンディーネを城から連れ出したのだとすれば納得がいく。
(…待て。だとすれば…)
クラウドは隣でなにやら不満そうにしているヘビスに目を向けた。
先ほどのクラウドの返答がどうも気にくわなかったようで、眉間に深いしわが刻まれている。
もしかすると、この船の中にもその"大戦争を止める鍵"がいるかもしれない。
それがヘビスやアリヤはたまた船長やモモカだということもあり得る。……と、急にクラウドはそこで考えるのをやめた。
食堂に着いたということもあるが、今目の前にある問題の中心はそこではないからだ。
一刻も早くルィサ王国に行ってウンディーネの記憶を取り戻さなければならない。
また、彼女自身もそれを望んでいる。彼女も彼女なりに記憶の手がかりを探しているに違いない。
机の上に広げられていたアルバムがなによりの証拠だ。
カウンターでモモカからトレイにのった夕食を受け取るときに、厨房の奥にちらと目をやるとウンディーネの姿が見えた。
心なしか少し忙しそうだ。なぜかほころびそうになった口元をなんとか抑え、適当に席に着く。
隣に座ったヘビスは胸の前で両手を合わせ、元気よく「いただきまーす!」と言ってから食べ始めた。
クラウドも小さく「いただきます」と言ってからスプーンを手に取る。そのままスープをすくい口に運んだ。
ウンディーネは自分から進み出て記憶喪失になる前と同じように厨房で働いている。
包丁の扱い方などは体が覚えているからいいものの、食材の場所や調味料の加減などは
見事にすっぽ抜けているようで。今までモモカが教え込んできたレシピも水の泡になってしまったのだった。
だから当然というかなんというか、モモカは今まで以上に熱心にウンディーネに料理を教え込んでいる。
教えられているうちに徐々に料理についての記憶を取り戻し始めていることはなかなか喜ばしいことだ。
だが、それが逆に料理を失敗させている原因にも繋がっていたりする。
それというのも「こうじゃなかったかな」と漠然とした記憶で手を動かすせいである。
どうすればここまでまずくなるのかというほど味が悪くなることもあり、モモカの頭を悩ませていることは事実だ。
「ほらクラウド。あんたも早く選びなさい」
はっとして顔を上げると、すぐ目の前にモモカがいた。
手には一口サイズのクッキーがいくつかのっているトレイを持っている。
「クッキー?どういう風の吹き回しだ?」
「ロシアンルーレットよ。このクッキーの中に、一個だけはずれがあるの。それに当たった奴は…」
モモカは少し意地悪い微笑みを浮かべた。
「"ちょっとした地獄"を味わうことになるわ」
周りを見渡すとほとんどの船員の目がこちらを向いている。…断るのは100%無理だろう。
かなり嫌な予感がするのだがしかたない。クラウドはため息をつき残り十つほどになっているクッキーに目を向けた。
確率はたったの十分の一。目立った特徴はなく、すべて同じような形と大きさだ。
クラウドもそこまで運は悪くはないし、たとえ見事当ててしまったとしても"ちょっとした地獄"を味わうだけである。
その"ちょっとした地獄"も、どうせ舌がとろけるほど甘いとかそこらへんだろう。…たぶん。
「…というか、なんでいきなりこんなことを」
「たまにはこんな余興もいいでしょ?いいからさっさと選びなさいよ」
モモカに急かされ、クラウドは適当に選んだクッキーを口の中に放り込んだ。
当然ながら口に含んだだけでは結果がわかるはずもないので、クッキーを歯で噛み潰していく。
――――だが。
結局、クラウドは気づくことができなかった。
あまり使われることもなく新品同様だったタバスコが、半分以上減っていたことに。
災難続きの彼に、どうか幸あれ。
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あとがき
なんだか急展開?の七話でした。
クラウド…何かと災難続きですね。激甘クッキーの方がまだマシです。
ちなみにベンはまかり間違っても素敵な中年なんかじゃないです。
ただの眼鏡かけた中年太りな親父です。(夢を壊すなよ)
さて、船は嵐に遭うことなくルィサ王国へ行くことが出来るんでしょうか。
ではまた次回に。
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