オリーブを出港してから、数日が経った。



食事や飲み物を一切受けつけようとしなかったルゥに、少しずつ明るさが戻ってきている。
少しずつではあるが食事に手をつけるようになり、それにつれて船内にもだんだん活気が戻っていくようだった。
サゥドに着くまでにはあと一週間ほど。それまでには船も元の活気を取り戻すだろう。



そして、ある日の早朝のこと。



海に巣くう魔物には朝早くから行動する者もいる。それが人間の船を襲うことだって珍しいことではない。
それゆえ、戦闘要員たちはローテーションを組んで毎朝早くから見張りに出ることになっている。
その日に割り当たった要員は自分の武器と小指ほどの小さな笛を持参する。
武器は自分の手に負えるほどの敵が出た時、笛はもっと大きな敵が出た時のためだ。
いつものように、ひとりの船員が甲板へ見張りに出たときのことだった。


その朝は見事に真っ白な霧が辺りを包み込んでいた。自分の半径1mほどしか確認できないほどだ。
だが少し目を凝らせば遠くの物もぼんやりと見ることができる。さほど問題はないだろう。
足下に注意しながら甲板をゆっくりと見回っていく。

船べりから身を乗り出して海の様子を見ようとしたが、霧のせいでまったくわからない。
だが今、船はゆっくり上下に揺れているだけだ。聞こえてくる波の音も静かなものだし、昨日と変わらず海は穏やかなのだろう。
今日も異常なし、と踵を返し船内に戻ろうとした時だった。



「ハザード・ラキャットの船……やっと捕まえた」



上空から女の声が響いた。
船員は目を凝らすが、薄水色のぼんやりとした人影をとらえることしかできない。
何者だと問いかけようとしたその時、船員から少し離れたところに人影は着地した。
アメジストが煌々と煌めくロッドを手に持った魔導師風の女――――
メジストは、目の前にいる船員の姿を目に留めて残念そうに口を開く。



「なあに、見張りがいたの。手っ取り早く船腹に穴をあけて、沈めようと思ってたのに。……まぁ、殺せばいいことよね」



次の瞬間、アメジストに赤い光が集まったかと思うと数個の炎の玉が船員めがけて放たれた。
横に飛び退き、なんとかやり過ごす。狙いが外れた炎の玉はそのまま霧の中へと消えていった。
武器を抜く暇などない。それ以前に、己の力だけでかなう相手かどうか。船員は首に掛けていた笛へと手を伸ばし、口に運ぶ。
まるで牛乳を流し込んだかのように真っ白い霧の中、笛独特の高音が鳴り響いた。


























































カミノウタ



第6話

−目には目を、歯には歯を−





























































耳をつんざくような高い音。それによって彼女は夢の世界から現実へと呼び戻された。
ゆっくりと目を開き、そして数回瞬きをすると彼女――――黄泉は起きあがりベッドから降りる。



(…緊急事態か)



真っ黒な長い髪を梳き終わると彼女はいつもの黒装束と黒い着衣を身にまとう。
そして身長の半分ほどもある鉄爪を装備し、部屋の鍵を開けると黄泉は物凄いスピードで甲板へと駆け出した。
途中で幾人かを追い抜き甲板へと上がると、そこには数人の船員の姿と――――



「メジスト……」

「ああ、黄泉。久しぶりね」

「ドレットに命じられて私を消しに来たのだろう。他の者を巻き込む必要はない」



黄泉はちらと先に来ていた船員たちに目線をくれた。すでに傷ついている者がほとんどだ。
だがメジストは横に首を振った。黄泉は眉間にしわを寄せる。



「命じられたのは黄泉を消すことだけじゃないの」



次々と戦闘要員が甲板に上がってくる。その中にモモカやアリヤの姿もあった。
ゆったりとした口調で、だがこの場にいる全員を凍りつかせるような言葉をメジストは吐いた。



「どんな手を使っても構わない。この船を潰せ、って」

「……なんだと?」

「ハザード・ラキャットの船を潰せって。この船にいる人、全員を殺せってドレット様から命じられたの」



そういってメジストはにこりと微笑んだ。冗談じゃないと船員のひとりが叫ぶ。



「ば、っか言うんじゃねえよ…お前ひとりだけの力でオレら全員を殺せるか!」



その言葉で火がついたのか、他の船員も口々に「そんなことできるわけない」と叫んだ。
だが、次の瞬間――――



「少し、黙っててくれる?」




―――空気を殴るような音がした後、甲板になんともいえない沈黙が漂った。
船員たちは地に伏せ、気を失っていた。当然、今のメジストの言葉も届いているはずがない。
メジストの力を目の当たりにした残りの船員たちはじり、と後退りした。



「大丈夫、たぶん死んでない。…黄泉、まずはあなたから」



メジストはロッドの先端を黄泉に向けた。「いいだろう」と黄泉は頷く。
まるで静電気をまとったかのように黄泉の髪は広がり、少しずつ銀色に変わっていく。
一気に静寂とぴりぴりとした空気が流れ――――今にも戦闘開始という時だった。



「待って!!」



静寂を破る声に全員が振り向くとルゥがそこにいた。手に、真っ白い棍を持って。



「黄泉さん……私に、やらせてください」

「……何?」

「わがままだっていうこと、わかってます。だけどあの人だけは、私――――」

「仇討ち、というわけか」

「はい」



ルゥのまっすぐな瞳を見て、黄泉はため息をついた。そして「わかった」と頷く。
ありがとうございますとルゥは頭を下げる。
……少ししてから頭を上げると、今度はまっすぐにメジストを見た。



「あなたのこと、許さないから」



ひゅん、と空気が唸る。鋭い音がした時、すでにルゥの棍とメジストのロッドは交わっていた。
しばらくつばぜり合いをした後、ルゥが大きく後ろに飛んだ。次の瞬間アメジストから放たれた炎の玉が彼女に襲いかかる。
ルゥは口早に文言を唱え、手のひらを前に突き出した。
すると、ぼんっという音とともに大量の水泡が炎の玉を包み込み、瞬く間に相殺してしまった。
少しの間静寂が流れたが、すぐにメジストのロッドが空を裂いた。同時にルゥが守護魔法ウォールを唱え、飛んできた風の刃を退ける。



(今度は……こっちの番っ)



数個の木箱にかけられていた大きな布を掴み、投げつける。
体にかぶせられたメジストは一瞬ひるんだが、すぐに形を成した風の刃が布を切り裂いた。
その隙に近づいていたルゥが大根斬りをするように棍を振り下ろす。
だがメジストがロッドを頭の上へかざしたことで再びつばぜり合った。



「あなたのその銀髪、とても綺麗ね」



メジストはロッドの真ん中を左手で握り、ゆっくりと右手を離した。恐ろしくなるほど、無表情だ。
だけど、と彼女は続ける。同時にカチリ、という小さな金属音。



「こんな言葉を知ってる?"美しい花ほどその命は短いものだ"」






ひゅん、と風を切る音。






「!!!」



一瞬の後、ルゥの腰ほどもあった銀髪は肩ほどまでに切り落とされていた。
ルゥは目を見開いたまま、動かない。棍を握る手が細かく震えている。



「それから、あなたは私を許さないと言ったわね?」



アメジストに青い光が集まる。ドン、という音とともに衝撃波がルゥを船尾まで押し運んだ。
ものすごい勢いで壁にたたきつけられ、彼女の華奢な体は悲鳴をあげた。



「別に許してもらおうなんて思ってない。すべてはドレット様のためだもの」

「ドレ、ット…?」



けほ、とルゥは咳き込む。体中が痛い。気を抜けば、今にも視界は暗転するだろう。
そう、とメジストは再び穏やかな微笑みを浮かべる。



「ドレット。それが私の仕える、何年も昔から仕えている人の名」



ルゥは記憶の糸を手繰った。

ドレット――――確か、ヘビスの腕に蛇の呪いを埋め込んだ、黄泉の元主。
それがメジストの仕える主ということは――――父を、兄を、民を、殺したのは――――
あまりにも簡単な結論が出る前に、ルゥの瞳は閉じられた。視界が暗転する。













意識が、途切れた。





















































意識を失ったルゥにクラウドが駆け寄った。ただ気絶しているだけということがわかって、安堵のため息が漏れる。
と、再び小さな金属音がした。メジストの手袋の中に仕込みナイフがしまわれた音である。



「そこをどいてくれる?とどめを刺さなきゃ」



クラウドは目の前の敵を睨み上げ、答えの代わりに剣を抜いた。
するとそのままの微笑みで、メジストは「あら」と小首を傾げた。



「今度は剣士さん?誰がやっても同じことなのに」



そう言ってメジストは楽しそうに小さく笑う。クラウドは何も言わない。
すっ、と彼は立ち上がり、メジストの喉元に剣を突きつけた。無表情のままで。



「……ごちゃごちゃ、うるさいんださっきから。喉をかっ切って喋れなくしてやろうか」

「脅しのつもり?言っておくけど、私を殺すなら貫くのはそこじゃあ駄目」



メジストは穏やかに微笑んだまま自分の胸元に手をやった。
そこには、血のように赤い三日月の紋章が淡く光を放っている。



「この紋章を貫かなきゃ。……そう簡単に、やらせはしないけれど」



そうして一歩後ろに下がり、小さく文言を唱えるとメジストの体は宙に浮いた。
この光景には、ヘビスのように魔法の知識がない者でも驚いた。

普段傷を癒したり魔物を退治するときなどに唱えられる魔法は、そもそも数千年前に途絶えた古代人がかつて使っていた技術なのだ。
その古代人が書き残したと思われる魔法についての古文書が数百年前に大量に発見され、学者たちがそれを何十年もかけて解読。
そして魔力が備わっている者ならば容易に魔法を扱える方法を開発した。それに何度も何度も改良が重ねられたのが、今の魔法だ。

しかし――――飛行魔法が載っている古文書は未だ解読どころか発見されてもいない。
目の前の光景に、クラウドをはじめとする船員たちは目を白黒させるしかなかった。
目の錯覚などではない。メジストは間違いなく宙に浮いている。空を飛んでいるのだ。



「私、忙しいの。ひとりひとりをいちいち相手にしているわけにはいかないのよ」



そう言って、また文言を唱える。今度は少し長めだった。
十五秒ほど経っただろうか。メジストは伏せていた目を開け、一言つぶやいた。



「ドレット様のために、死んで?」



太陽が完全に昇ったのだろう。霧の間から光が差し込んだ。
それまで足下で丸くなっていた影も人影へ形を変えていく。



「なっ…なんだぁ!?」



アリヤが突拍子もない声を上げた。クラウドはその声を少々鬱陶しく思ったが、
今起こったことを前提にすればそのような声を上げるのもしかたのないことだった。
――――影が、立体化したのだ。



「せいぜい自分の影と殺し合っていて。私はここで高見の見物をしているから」



にっこりと笑うとメジストは空中を移動しマストの上に腰掛けた。
それと同時に、一斉に影たちは自分たちに襲いかかってきた。


カキン、と剣と剣とがぶつかる音が鋭く響く。
クラウドは影の脇腹であろうところに剣を薙ぎ打ったが、影も大人しくやられてはくれない。
いったん後ろに飛び退き、再び剣を構えてこちらに向かってきた。



(チッ、まさか本当に自分の影と戦うことになるなんてな……)



クラウドは胸中で悪態をついた。
影が使っている剣も自分と同じ物のようだ。へし折ることもできないというわけではない。
ただ、鏡がそっくりそのままを映すように――――左右逆ではあるが――――影もそっくりそのままに大地に姿を映す。
今影の剣をへし折れば自分の剣も同じくへし折れてしまうかもしれない。
だが、このまま自分の影と戦い続けるというのも賢いとは言えない。
体力を消費し続け、疲れ切ったところを殺られるというのがオチだ。何か、打開策を見つけなければ――――



そこで、はたと気づいた。



背後で未だ気を失っているルゥの影はどうなっているのか?
影に気配はない。最悪の場合、ルゥは気を失ったまま影に殺されるかもしれない。
剣の柄を使い影のみぞおちだろうところを打ち、影がうずくまったところで再びルゥへと駆け寄った。

見ると――――ルゥの影は立体化していないようだった。
メジストの魔法が発動し、太陽が昇った時に帆か何かの影の中にいたからだろう。
だがルゥが目覚めるか太陽が動くかするかしてこの日陰の中から出てしまえば、彼女の影は立体化。
たちまち彼女もメジストの術中にはまってしまうだろう。
打開策はルゥに頼むしかなさそうだ。クラウドはルゥを起こそうと彼女の体を揺すり始めた。
背後に、己の影が迫っていることも知らずに。



「ルゥ、ルゥ!起きろ!」



体を揺すられ、名前を呼ばれたことで彼女は目を覚ました。体が少し痛む。
目の前にいる人物と、今いるところをしっかり把握してから彼女は口を開いた。



「クラウド…?私、どうし…」



どうしてこんなところに、と続けようとして、はっとした。
頭を振って意識をはっきりさせると、ますます数分前のことを鮮明に思い出すことができた。
しようとした質問を取り消し、周りをゆっくり見てから再び口を開く。



「あれは……影?」

「ああ。あいつ、飛行魔法を使った上に影の立体化までしでかしたんだ。それに、どうやら人間じゃないらしい。
…ルゥ、お前はこの日陰の中から決して出ないでくれ。ここであの影を払う策を――――」



言葉を続けようとして、止めた。
ルゥの表情が一変したからである。すぐさま彼女は叫んだ。



「後ろ!!」



はっとして後ろを振り向くと影の剣がすぐそこまで迫っていた。
横に飛び退く暇もなく、刃が彼の左足に食い込んだ。そのまま布ごと切り裂かれる。
彼の声にならない叫びと、血しぶきが上がった。



「クラウド!!」

「これ、くらい…大丈夫だ。それ、より…、怪我は、ないか?」



彼女は少し目を見開いて…そして、小さく頷いた。するとクラウドは安堵した表情で「よかった…」とつぶやいた。
ルゥは真っ赤な血が流れる足に手をかざし文言を唱えた。柔らかな光とともに血が止まり、少し傷が癒えた。



「すまない。俺がまだ、弱いから…」

「……もう、いいんだからね」



ルゥがそっとつぶやいた。クラウドは疑問の表情を浮かべる。
彼女は微笑んでいたが、それは今にも泣き出しそうな――――哀しく、切ないものだったからだ。

手に真っ白い棍を持ってルゥは立ち上がる。目の前には血に濡れた剣を構えたクラウドの影。
口早に文言を唱えると彼女の手に白い光が集まっていく。そして影に向かって強い光が放たれた。
ひるんだところに棍で打ち払うと影は海へとたたきつけられた。
そんな手があったのかとクラウドは目を皿にする。同時に高見の見物をしていたメジストも少し驚いた。

更に彼女は他の影たちに向かって少し長めの文言を唱えた。
今度は先ほどよりも強い光が広範囲に渡って放たれ、それによって大半の影は消えてしまった。
強い光に照らされても消えなかった影もいるようだったが、それでもかなりひるんだようだった。
尻込みするように船のへさきへと集まり、こちらの様子を伺っているようだ。
それまで苦戦していた船員たちも船尾へと退く。中には船内に逃げ込んでしまった者も数名いるようだ。



「ルゥ!?」



ルゥが前へと進み出た。日光に照らされ、影ができる。ルゥが歩みを止めたところで影は立体化した。
だが彼女に襲いかかることはなく、他の影と同じく船のへさきへと退く。
――――ルゥはクラウドたちの方を振り返らず、誰にも聞こえぬ声でつぶやいた。





「……今まで、ありがとう」





無造作に切られてしまった銀髪が、風もないのに宙を舞い始めた。
柔らかな光が円を描くように足下をゆっくりと回り、広げた両手の先に浮かんでいる真っ白い棍を薄青く照らす。
桜色の唇は細々と言葉を紡ぎ出し、断片的に聞こえてくる文言はまったくと言っていいほど彼ら――――アリヤたちにはわからない。





だがその文言の意味を理解できた者が、ひとりだけ。





クラウドは断片的な文言を耳にすると、大きく目を見開いた。



「やめろ!!それだけは使っちゃだめだ!今すぐ詠唱を取り消せ!!!」

「ク、クラウド!?どうしたんや急に!」



突然身を乗り出し叫ぶクラウドにヘビスが言った。
いつも冷静なクラウドが誰かに向かって叫ぶなど珍しい。
クラウドはヘビスをキッと睨み上げ、口早にルゥがしでかそうとしていることを告げた。



「今あいつがやっていることは、下手をすれば命に関わることなんだ!だから、何をしてでも止めなきゃならねえ!!」



これにはヘビスだけではなく他の船員たちも驚いた。そんな彼らを尻目によろよろとクラウドは立ち上がる。
激痛に顔が歪む。ルゥが癒してくれたとはいっても、血を止め傷を少し塞いだだけなのだ。
だがそれでもクラウドは前に進もうと左足を引きずる。その様子に気づいた黄泉が彼を止めようと静かに声をかけた。



「今、下手にその足を動かせば一生使い物にならなくなる可能性もある。…やめておけ」

「うるさい…義足になろうがなんだろうが、今はあいつを止めることが先決なんだ!」

「…そうか」



あっさりと黄泉は説得をあきらめた。そして、長く文言を唱え続けているルゥへと目を向ける。



(あの娘はいったい何をするつもりなんだ?下手をすれば命に関わる…?何のことだ?)



黄泉が考えを巡らせているうちに、クラウドは頼りない足取りでようやくルゥの元に辿り着いたようだった。
彼女の肩に手を伸ばすも魔法特有の結界に弾かれる。
それでもクラウドはあきらめようとはせず何度何度も様々な方法を試み、そして失敗していた。
最後には足の痛みでその場に膝をついたが、あきらめるものかと叫び続けていた。
黄泉は不思議に思う。あの少女に"なぜ""そこまで""こだわる"のか?



(確かにエルフだけあって、顔は綺麗に整っている。魔力も並外れているようだな。だが――――)


























それ以上の物が、あの娘のどこにあるというのだろう?


























この二点を除けば、彼女はただ棒術使いというだけのどこにでもいそうな平凡な少女。
足を捨ててまでルゥを止めようとする行為は、黄泉にはまったくわからなかった。





















































ばぢぃっ、と音を立てて結界は彼の侵入を拒んだ。悪態が口から漏れる。
いっそ彼女の"本当の名前"を叫ぼうと思ったが、思い留まった。
精神を集中させている彼女に効果が表れるかどうかわからないし、今正体をばらしてしまうのはあまりに危険すぎるからだ。
以前ティムライトで、メジストは"王家の人間は全員殺せ"と命じられていることを明らかにした。
彼女の正体がばれたらどうなるだろう?メジストは命令を忠実に遂行しようと彼女を殺そうとするに違いない。
そう考えると、今"ウンディーネ"と叫ぶわけにはいかなかった。


…実のところ、彼女が今何をしようとしているのかははっきりとはわからない。
だが断片的に聞こえてきた文言から、かなり危険な魔法だということは理解できた。
それに――――自ら死を覚悟した人の雰囲気によく似た、涙をこらえるようなあの微笑みと言葉。
ひとたび魔法が発動すれば、取り返しのつかないことになるかもしれない。



(どうにか止めることはできないのか?ウンディーネを止める方法は0なのか?早くしないと、ウンディーネは――――!!)



ぱちん、と彼の頭の中で何かが弾けた。まだ望みはあるかもしれない。
彼女を守っている結界は水で創られている。この結界は強く、魔法が発動するまで消えてはくれない。
水と相性が悪いのは何だ?…炎と雷だ。有利なのは?…雷だ。
そう、クラウドは雷の結界を張り、水の結界を破って詠唱を強制終了させようとしているのだ。
水は電気を通しやすい。つまり水の結界を雷の結界に同調させ、彼女の結界の中に入ってしまうというわけ。
そうすれば後は簡単。彼女の口を塞ぐなどの方法で詠唱の邪魔をすればいい。


文言ももうじき終わってしまうだろう。早く実行に移さなくては。
激痛の走る足に鞭を打ち、クラウドはよろよろと立ち上がった。息も荒い。


宙に舞う銀色の炎が急に弱まった。青い瞳がまっすぐに彼を見つめている。文言も止まった。
そして、彼女は再び言葉を紡いだ。端的に、あっけなく。彼にしか聞こえない声で、ゆっくりと。


























炎が消えた。


























言葉にできない悲しみが、悔しさが全身を支配した。
それらすべてを詰め込んだ彼の叫びが空に、海に、すべての空間に響き渡った。


























ウンディーネ、と。





















































後ろで、誰かが私を呼んでる。
止めてくれてるのは、クラウド?
…そうだよね。長い間修行に出てたから、禁呪文のことを知っててもおかしくない。



禁呪文――――魔力の少ない者が唱えても十分なチカラになるその呪文たちは術者を奈落へと導く。
それゆえに何百年も昔に封じられた、禁じられた呪文。



守ってやるって言ってくれて、止めようとしてくれてありがとう。
だけど、これ以上みんなに迷惑はかけられない。
仕事も満足にできてないし、これじゃ足手まといになるだけでしょう?



禁呪文はたった四百字ほどの文言を唱えればいい。
しかし最後の文言、つまりそれを唱えることで発動する言葉――――普通の魔法ならばそれの名称となる言葉は、自由だ。
ただとびきり精神を集中させ、感情を込めなければならない。
どんな感情でもいい。歓喜、絶望、憎悪……感情を込めさえすれば呪文は発動する。



せっかく会えたクラウドと、せっかくできたたくさんの仲間と別れるのは……私だって悲しいし、寂しい。
でもいいの。私にはもう、帰るところなんてないんだから。
父様と母様、兄様たちだけが一緒だなんて…ずるいじゃない?



よって、禁呪文たちには種類はあるが名称はない。だから書物にも"立体化した影を戻す呪文"とか、
"一瞬にしてひとつの町を滅ぼす呪文"とかその呪文の効果を記しているにすぎない。



私はあなたに自由な道を選ばせたい。私を守ることばっかりで、自分のことは何ひとつしてないじゃない。
私を守ることだけにこだわってちゃいけない。あなたにはあなたの道を歩んでほしい。







だから…


























サヨナラ。





















































空を仰いで、ゆっくり倒れ込む"ウンディーネ"の体をクラウドが抱き留めた。
皮肉にもそれは、二人が再会した一番の最初の場面と酷似していた。


影は次々にクラウドたちの足下に帰っていく。それらはもう平面的な物に戻り、襲いかかってくる様子は感じられなかった。
ウンディーネは眠っているように安らかだ。苦痛や悲しみの表情はどこにもない。



「死ん、じまったのか…?」



信じられないという表情を浮かべたアリヤが誰にというわけでもなく、つぶやいた。
彼女の顔を見つめたまま、クラウドは動かない。
モモカが腰に手をあて、ヘビスが困ったような悲しいような表情を浮かべた。
足の痛みも忘れ、クラウドはただただウンディーネを見つめている。彼の痛々しいその姿は、泣いているようにも見えた。
この空間の時だけが何者かによって急に止められたようで。気まずい静寂が彼らを包んでいた。
だが――――



「なるほど。目には目を、歯に歯を。禁呪文には禁呪文というわけ」



ふわり、とメジストはマストから甲板へと舞い降りた。



「まさかこの船の中に禁呪文を使える人がいるなんて思いもしなかった。禁呪文を禁呪文で返されたなんて初めてよ」

「…なんで、生きてる」



つぶやくようにクラウドは言った。ウンディーネの体を静かに床に下ろし、振り返る。



「俺はその、禁呪文とやらの意味は知らない。けど言葉の感じや聞こえてきた文言からしてかなり危険な呪文なんだろう。
幸いなことに、ウンディーネは死ななかった。……それだけだ。
なのにお前は、なんで倒れることもなく平気でいられる!?」



ぞく、とヘビスの背中に戦慄が走った。クラウドはもともと眼光は鋭い方ではある。
だが今のクラウドは――――今までに見たことのないような、恐ろしい目をしていたのだ。



「答えろ。じゃなきゃお前をここで討つ」

「…思ったより、怖い目をするのね」



クラウドは再びメジストに剣を突きつけた。…喉元ではなく、紋章が宿る胸元に。
穏やかな微笑みを崩さずにメジストは頷いた。淡々と彼女は話し出す。



「私は数千年前に滅んだ古代人。紅い三日月と結んで、感情と引き換えに不老不死を手に入れたの。
…もちろん感情をすべて失ったわけじゃなくて、普通の人間より感情の起伏が大幅に小さいだけ。
禁呪文のように感情を使うものは少し疲れるけれど。…どう?この答えで満足した?」



クラウドは黙って剣を鞘に収めた。心の奥から溢れ出る感情が彼の手を細かく震わせる。
決して恐怖ではない。ましてや歓喜でもない。怒りと悲しみとが混ざった、複雑な感情だった。



「私はもう帰らせてもらうわね。この船を潰せなかったのは残念だったけど…。それから、黄泉」



ふっ、とメジストは黄泉を振り返る。



「ドレット様は本気であなたを消そうとお考えよ。…覚悟は、しておくのね」

「余計なお世話だ。とっとと消えろ」

「言われなくとも」



ちらりと横たわるウンディーネの姿を目にとらえた後、メジストは移動魔法を発動させ風に紛れて消えた。
またもや静寂が流れる。だがそれも一瞬で、すぐに何かが倒れたような音が響いた。



「お、おい!」



慌てて数人がクラウドとウンディーネの元に駆け寄った。
倒れたクラウドは汗びっしょりで、ヘビスは改めて彼の強靱な精神力に驚かされた。
たとえ痛みの知覚はなくても、立っているだけで辛かったはずだ。

ヘビスは次にウンディーネへと視線を移した。
"ルゥ"が"ウンディーネ"だったことに驚きは隠せない。だが彼女は彼女である。
"ルゥ"であろうが"ウンディーネ"であろうが、今まで同じ船で一緒に働いてきたことに変わりはない。



「とりあえず、二人を医務室に運ばねえとな…っつか、みんなほとんど傷だらけか」



アリヤがため息混じりに言った。その表情はやりきれない心情をありありと浮かばせている。
と、空を見上げているモモカを見つけた。どこか寂しそうで、悲しそうで…だが、怒っているようにも見えた。
声を掛けるとモモカは振り返り、こちらへと駆け寄ってきた。さすがに元気はないが、いつもの彼女だ。



「二人を運ぶの、手伝ってくんねぇか?みんな傷だらけで運ぶのは辛そうなんだ。
お前とヘビスはそんなに怪我してねぇみてぇだしよ」

「あたしたちだけじゃなく、黄泉にも頼みなさいよ。黄泉もあんまし怪我してないわよ」

「なーに言ってる。黄泉にんなこと頼めるかよ。今、すんげーピリピリしてんだぞ。
今度は背負い投げだけじゃすまされねぇかもしれないだろ」

「おぉ、少しは学習したんやな。…んじゃ、わいらで二人運ぼか」

「そうね。んじゃアリヤがクラウド、ヘビスが…あー、そっち背負んなさい」

「ってモモカ。お前は運ばねぇのかよ!」

「あたしはサポート役よ。文句言わないでとっとと背負んなさい」

「へいへい…」



おとなしくアリヤとヘビスはそれぞれクラウドとウンディーネを背負う。
だが気を失っている人間の体重は、意識のある時よりも当然重くなる。
華奢なウンディーネを背負うヘビスはまだいいとしても、ほどよく筋肉がついたクラウドを運ぶアリヤは一苦労である。





















































バシュッ






広い部屋。敷き詰められた赤い絨毯。豪華な家具の数々。



(自分はクラウド・ルーベメルと申します。恐れながら、今日から貴女の護衛につくことになりました)

(うむ、そういうわけだ。ウンディーネ、仲良くするんだぞ)

(はい、父さま)


























バシュッ






自分と年下の少女。窓の外には散る桜。ふと投げかけられた質問。



(あなたは、どうして私の護衛をすることに?)

(他にも候補はいました。もっとふさわしい人物もいたはずでした。
ルーベメル家の人間だから……たったそれだけの、理由だったんです)

(それって…)


























バシュッ






二度目の舞う桜。桃色に埋め尽くされた中庭。太い枝に腰掛ける少女。



(王女!?何をして…)

(下で見るより、ここで見る桜の方がずっとずっと綺麗なの!クラウドも一緒に見よう?)

(あのなぁ…)


























バシュッ






窓から外を眺める少女。それを見つめる自分。紡がれる言葉。



(私ね、最近思うの。クラウドが私の護衛でよかったって)

(…そうだな。俺も王女の護衛ができて、よかったと思うよ)

(本当!?)


























バシュッ






微かな月明かり。静かな城内。薄明るく照らされる同僚の顔。



(最近クラウド、王女様とのことで噂になってるぞ)

(どんな?)

(そりゃお前、"ウンディーネ王女様とその護衛のクラウド・ルーベメルは恋仲だ"って噂だよ!)


























バシュッ






燃える、家々。燃える、人々。血まみれの、少女。乾いた声で泣く、風。



(王女!!!)

(だいじょう、ぶ…これくらい…なんて、こと…)

(その…その傷のどこが大丈夫だっていうんだ!!もうやめろ!!!)

(…いいえ…これ…っ、以上…みんなを、苦しませるわけ、には…)


























(許さない…許さない!!どうしてこんなこと!!!)


























(私…ここにいていいの?)









……めろ…




























(…もう、いいんだからね)









やめ、ろ…




























(――――さよなら)







































「やめろ!!!」







































「目が覚めましたか」



勢いよく起き上がった彼が一番最初に見たのは、真っ白いカーテン。うなされていたのか息が荒く、体中に汗をかいていた。
カーテンの隙間から、タオルを水で濡らしているティルの姿が見える。少し呼吸を整えてから、彼は静かに言葉を紡いだ。



「俺、今……」

「ええ、ものすごい大声で叫びましたよ。何をやめればいいのか一瞬考えてしまいました」



はは、と小さく笑いティルはクラウドにタオルを手渡した。冷たいタオルが上昇した体温を気持ち良く冷やしてくれる。
丸椅子に腰掛け、ティルはクラウドの足に巻かれていた包帯を外していく。
血に濡れたガーゼをテープごと剥がし、ゴミ箱に捨てた。
適量の消毒液を新しいガーゼにつけ、テープで傷口の上に固定する。



「傷はそんなに深くはないですね。すぐに魔法で癒したのがよかったんでしょう。
ですが走るなどすればすぐに傷は開きますし、出血もします。しばらくは絶対安静ですよ」



ティルは慣れた手つきで包帯を巻き終えると、クラウドの額に目を向けた。
今はバンダナがほどかれて、大きな傷痕があらわになっている。…少し、痛々しい。
だがすぐに視線をクラウドの目へと移した。少し真剣な面持ちで、口を開く。



「ルゥ…いえ、ウンディーネさんのことは聞きました」

「…そうか。あいつは、今どこに?」

「隣のベッドです。…静かに、眠っていますよ」



そう言って立ち上がり、ティルはカーテンを開けた。白いシーツが敷かれているベッドの上に彼女は横たわっていた。
いったい誰がやったのか、無造作に切られた髪が綺麗に切り揃えられている。
肩に触れるか触れない程度のその髪型は、不思議に彼女に似合っていた。
…本当に眠っているようだった。声を掛けたり、体を揺すればすぐにでもその目は開きそうだというのに。



「もう…目覚めることはないんですか」

「わからない…もしかしたらこのまま、ずっと目覚めないかもしれない。目覚めても、正気であるかどうかも――――」

「…そう、ですか」



ティルはクラウドとウンディーネの間にあるカーテンはそのままにしておき、ベッドの周りを囲っているカーテンを閉めた。
それから自分がいつも使っている机の上に乗っていたカルテを手に持ち、白衣を脱いで椅子の背もたれに掛ける。



「私は船長のところへ、あなたが目覚めたことを伝えてきます。すぐにここへ飛んでくるでしょう。
あなたは、三日三晩ずっと眠っていたんですからね」

「そんなにか…」



ええ、とティルは頷く。それからドアノブを握り、回そうとしたところで手を止めた。クラウドの方を振り返らず、彼は言う。



「…そういえば、知っていますか?
悪い魔女の手によって永遠の眠りについた美しき王女が、勇敢な王子の口づけによって目を覚ますというお話」

「あぁ、たかがおとぎ話だろ。だいたい口づけで目覚めるわけが…」

「されどおとぎ話。あれ、実はまんざら嘘でもないんですよ。口づけは脳の働きを活性化させるんです。
毎朝のいってらっしゃいのキスが、寿命を五年延ばすとも言われていますしね。
王子に口づけされたことで王女の脳は活性化し、眠りから目覚めたというわけです」

「…何が言いたいんだ?」



なかなか結論を出さないティルに、クラウドが眉を寄せた。
そこは勘の鋭いクラウドのこと。まぁ、なんとなく彼の言いたいことはわかっているのだが。
ティルはいたずらっぽい微笑みを浮かべて、声が聞こえやすいようにとクラウドの方を振り返った。



「つまりです。ウンディーネさんも"誰かさん"の口づけによって目覚めるかもしれないということですよ。
その"誰かさん"にとっちゃあ馬鹿らしい考えでしょうが、試す価値はあると思いますよ」



ではこれで、とティルは医務室を出た。廊下に響く足音が消えるのを待たずに、クラウドはため息をつく。
横を見ると、ウンディーネの安らかな顔があった。ふと、つい先ほどのティルの言葉が脳裏をよぎる。
…彼が言っていた通り、本当に馬鹿らしい考えだと思う。
だいたいクラウドは口づけなどしたこともなかった。この五年間、強くなることだけを目指していたのだから。


ベッドから降りて、彼女の顔を覗き込んだ。雪のように白い肌が少し、眩しい。
七年前はごく普通の少女に見えたというのに、いつの間にこんなに美しく成長したのか。

――――顔が、少し熱い。










少しでも可能性があるのなら。



もう一度、彼女を守ることができるのなら。



口づけなど容易いことだと、思う。



顔がゆっくりと近づいていくにつれて、クラウドは静かに目を閉じる。


























そして――――


























「おいっ、クラ!目ぇ覚ましたって!?」



騒々しい足音とともに、乱暴にドアが開かれた。
飛び出してきた船長はばたばたとクラウドがいるベッドに駆け寄る。
勢いよくカーテンを開いたところで、何故かベッドに突っ伏しているクラウドを不思議そうに船長は見下ろした。



「おめえ…何してんだ?」

「……別に」












――――足が治ったら、真っ先にぶっ殺してやる。












向こうで声を押し殺して笑っている若き船医に、クラウドは少しだけ怒りを覚えた。
その船医に、さりげなく元気づけられたのだということも知らずに。




















































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あとがき

…最後が恥ずかしい六話でした。
今回は結構な急展開でしたね。ウンディーネの正体もばれてしまいました。
シリアスが続いたので、最後だけはほのぼの風味?にしてみました。…恥ずかしいですが。
さて、ウンディーネは正気で目覚めることができるんでしょうか。

ではまた次回に。