『もしあなたに少しでも魔法の心得があるのなら、そして命に賭けてでも
守りたい"大切な何か"があるのなら、私がこの先に記す言の葉たちを手に取ることを許可しよう。』


たったこれだけの言葉に、まだ十五にも満たぬ少女は心奪われた。
少女の名はウンディーネ・シェリル・ティムライト。ティムライト王国第一王女であり、この王国の第二王位継承者である。
いつもの図書室で、膨大な量の中から選んだその本。開くと埃が宙に舞い、古い本独特の匂いが鼻をついた。
それが彼女の好奇心をかき立て、文字をなぞらせた。そうして彼女の目に飛び込んできたのが、先ほどの言葉だった。

この二つの条件を、ウンディーネは十分にクリアしていた。
魔法はエルフならではの得意分野だし、家族や国民は何よりも大切に思っている。彼らを守るためなら命を捨ててもいい。
彼女はためらうこともなく、少しの空白の後に記されている言葉に目を運んだ。


『ならばあなたは、その"大切な何か"を守るためにすべてを捨てることができるだろうか?
かろうじて命は助かったとしても、例えば……そう、記憶を捨てることはできるだろうか?
もしそれもできるのであれば、数百年も前に昔に封じられた呪文の知識をあなたに託そう。もちろんそれの使い方もだ。
本当に心の底から、"大切な何か"を守りたいのであれば次のページをめくり、そのまま読み進めればいい。』


……1ページ目は、そこで終わっていた。


ウンディーネは生唾を飲み込んだ。
正直、その封じられた呪文に興味が無いというわけではない。現に指は既に次のページに添えられている。
……何はともあれ、このページをめくるにはかなりの覚悟が居るようだ。
彼女は考えた。いっそこのまま何も見なかったことにして、この本を本棚の奥の奥へとしまってしまおうか。
だがそれは好奇心が許さなかった。無意識のうちに指がページをめくろうとしていた。



「ウンディーネ」



はっとして、声が発せられた方へと顔を向けた。



「……アメット兄様」



ぽつり、とウンディーネはつぶやいた。
今目の前にいる少年こそが、ティムライト王国第一王子であり第一王位継承者であるアメット王子――彼女の兄だった。
アメットは細い目の中に優しさをたたえ、にっこりと微笑んだ。



「また読書に没頭していたんだね。今度は何の本を読んでいたんだい?」

「なんだか読み進めてはいけなさそうな本です」



ウンディーネの答えから興味を示したのか、アメットはゆっくりとこちらに歩み寄りその本を手に取った。
ああ、と懐かしそうに彼はまた微笑む。



「ルシト・リィズの本だね。僕も手に取ったことがある」

「!じゃあ……」



期待のこもったウンディーネの問いに、アメットは肩をすくめてみせた。



「残念ながら……いくらウンディーネからの頼みでも、僕の見たモノは教えてあげられないな」

「そんな、兄様……」

「気持ちはわかるけれど、こればかりは自己責任で読み進めていくしかないんだよ」



残念そうに首を左右に振りながら、アメットはウンディーネに本を手渡した。
それはそうなんだけど、とウンディーネはまだ不服そうだ。しかたないなと彼は軽く溜め息を吐いた。



「じゃあウンディーネ、ひとついいことを教えてあげよう」



その言葉に、彼女は下を向かせていた顔を上げた。その青い瞳は期待に輝いている。
それを見たアメットはくすりと笑った。



「今日は何の日だと思う?」

「えっと……棒術の稽古の日です」

「今、何時だったかな?」

「何時って……」



ぴた、とウンディーネの動きが止まる。時計の針は二時半を示していた。



「も、もうこんな時間?!どうしよう、師匠きっと怒ってらっしゃるわ!」



がたん、と椅子から乱暴に立ち上がる音が響いた。ウンディーネはすっかり気が動転した様子で、



「兄様、またあとで!」



と告げると慌ただしく図書室を後にした。あの本を手に持ったまま。
ぱたぱたと走り去る音がすっかり消えた頃、アメットは思わず苦笑いを浮かべた。
まさか彼女が自分と同じようにこの封じられた―――禁呪文に興味を持つとは思わなかった。
やはり兄妹だということで血は争えないらしい。もちろん似ていないところも多々あるが。



(そういえば)



ふと、あの少年のことを思い出した。
数十人が敵わない強大な魔物を一刀のもとに倒すことができるほどの潜在能力を秘めた、"彼"のことを。



(元気、だろうか。確か修行の旅に出たと聞いたけれど……)



それも、ウンディーネを守るための強さを得るために。それ自体に問題はない。
いやむしろ、アメットは妹のためにも早めにこの王国に戻ってきてほしいと願っている。
彼女は確かに"彼"に好意を寄せているだろう。まったく、我が妹ながらわかりやすい。
周囲の人間は許してくれないだろうけれど――――"彼"が、妹をもらっていってはくれないだろうか。
……我ながら陳腐な考えに、アメットは少々自嘲じみた笑みを浮かべた。


アメットはゆっくりと周囲を見渡したあと、本棚の前へ行き一冊の本を手に取った。
タイトルは"エゥンの森"。主人公のルゥ・クロスがエゥンという森で妖精と出会うという、どこにでもあるお話しである。
けれど、ウンディーネはこの本が大好きだった。彼女がまだ幼い頃、よく読んであげたものだ。
そろそろ十代半ばを迎えるその年頃でも時々この本を手に取っているらしく、本の位置は微妙に前後している。
まだまだ子どもなんだな、とアメットは思う。王宮の中でぬくぬくと守られ、大切に育てられてきた可愛らしい花。
物語の中では、おてんば王女がこっそり城を抜け出して冒険にでかける、なんてことはよくあるけれど。
幸か不幸か、彼女の場合そんな無謀な行動を起こしたことは一度もない。ただひっそりとここで読書をし、
万が一の時のためにと護身に棒術を学び、そして来たる日のために知識を蓄えている。
王宮から外へ出る機会は滅多にない。あったとしても、馬車の中からしか外の世界は臨めない。
けっきょくは窓越しにしか触れることはできないのだ。それゆえか、民の中に彼女の顔を知る者はあまりにも少ない。

そしてそれはまた、彼自身も同じ事。生来からの病弱さであまり激しい運動はできず、静かに生を送るのみ。
天は二物を与えずとはよく言ったもので、ひ弱な身体のかわりに彼は聡明な頭を与えられた。
気が向けば魔法の研究をし、時間はかかるものの確実に結果を出していた。それが今の魔法技術の発展に役立っている。
しかし、いずれはこの国を身に背負う立場。今からでもウンディーネのように内政の知識を蓄えておかなければなるまい。
妹のように力は振るえなくとも、賢いやりかたで国を動かすことが自分にはできる。この国を正しく導くことができる。
せっかく天から恵まれたものをいただけたのだ。ありがたく、そして有効に使わなければならないだろう。



(今度の――――)



手にしていた本を元の場所に戻して、アメットは珍しく溜め息を吐いた。



(今度の研究で、最後にしよう)



誰かから言われたわけでもないし、強制されたわけでもない。
けれどティムライト王国第一王子として、第一王位継承者として、彼は自覚を持たなければならない時期に来ていた。
しばらくこの図書室にも来られなくなることが寂しく思えて、アメットはもう一度周囲を見渡した。






――――アメットが研究に失敗し、"人間ではないモノ"になってしまうのは、それからほどなくしてからだった。